エネルギー業界ニュース

異業種に学ぶ◎業態変革&新サービス・新ビジネス

 「脱炭素」への対応が求められるLPガス販売業界。業態変革も、検討すべき対応策の一つとなる。今号からは連載で、外的環境の変化を業態変革で乗り切った異業種の事例を紹介する。

コラム10(2023.8.7)

業態変革&新サービス・新ビジネス コロナ禍で新しいニーズを発見する 山本製作所

感染症流行下での非接触·マスク需要に着目

同社ホームページより

同社ホームページより

 山本製作所は、愛知県豊川市で金属製品製造業を営む中小企業である。2019年12月以降に世界的規模となったコロナ禍により取引先からの需要低迷による受注減少に対応すべく、新たな事業分野に進出し、成功を収めた。コロナ禍で新しいニーズを発見したのである。

「時が流れても変わらないモノ作り」が理念

 山本製作所は従業員数6名の金属切削加工業。同社の経営理念は「時が流れても変わらない人の温もりを感じるモノ作り」であり、1975年(昭和50年)に創業以来、切削加工を中心に事業を営んできた。現在は、真鍮材、真鍮ダイカストを使用した電気部品の加工を中心に自動車、半導体、設備治具精密部品の試作から量産まで、幅広い分野に対応してきた。いわゆる日本のものづくり企業の典型である。
 また、切削加工技術を生かして、かき氷器専用刃の作成を縁に、かき氷専門店「山の上のかき氷屋さんdouxcoeur」を地域活性化と観光振興を目指す「おかざきかき氷街道」に出店している。
 創業者は山本正義氏で、2代目社長の山本好海氏が急死という突発事態に、専業主婦だった妻が後任となるも、経営の素人ゆえに業績は下降し、取引先は1社だけという廃業も視野に入れざるをえない状況となった。これを聞かされた娘の田中倫子氏は看護師の職を投げ出し、会社を継ぐことを決意、2017年に社長に就任した。
田中社長はまず山本製作所の強みを把握するため、4年かけて各部署にて内勤し、機械操作をも含めて業務内容を把握した。次にコストダウンによる受注競争からの脱却、すなわち下請け企業からの脱却を目指した。
 そのための自社の強みを探し始め、一つ一つ実践してみた。その一つが、フレックス勤務態勢。働き方改革で17時以降に稼働できなくなる企業が増える中で、人員シフトにより稼働時間を長くするというもの。そのことで受注機会の拡大を目指すものだった。さらに「特急対応」も可とすることで付加価値を付けた。同社には「お困りごと相談所」という部署がある。「トラブルが発生したらいつでも相談ください」と外部にアナウンスしておき、同業者の困った案件を受注する仕組みである。

一般消費者向けに販路を求めた非接触ツール

 こうした取り組みにより業績回復を図っていた同社であったが、新型コロナウイルスのパンデミックにより、取引先の需要低迷の影響を受け、受注案件が減少した。その状況を打開するために同社が行ったのは、受注減の原因となったコロナ禍を逆手に取った戦略である。
 コロナ感染症対策でマスクは終日着用するのが日常となり、食事など必要なときだけマスクを外すようになった。このような状況下での需要に目を付けたのが非接触ツール『しっぽ貸し手』である。
 この商品が生まれたきっかけは、田中社長のかつての同僚だった看護師の「マスクの保管場所に困っている」という言葉。コロナ禍の最前線で戦う彼女たちにできることは何かないかと考えるようになったとき、偶然にも会社にやってくるようになった1匹の野良猫とのふれあいで、商品の形状を思いついた。それが『しっぽ貸し手』。
 殺菌、抗菌作用がある真鍮銅合金材を材料に、自社が以前から持つ金属加工技術で商品を製造。それまでのBtoBから自社で開設したECサイトを活用しBtoC=一般消費者向けに販路を求め、「YSS.BRAN」として発売。各メディアで紹介されたこともあり、2020年12月までに8,000個以上売り上げる盛況ぶりとなった。

消費者の声から新たな商品開発も

 当然ながら同社のBtoCへの進出は初めてであったが、ECサイトを通じ販売した消費者とのコミュニケーションの中で得られた声を社内にフィードバック。その消費者の声をもとに新たな商品として卓上マスク置き「しっぽ使っ手」の販売。さらには、instagramフォロワーと携帯用の『しっぽ連れてっ手』を共同開発し販売するなど、顧客の固定化と新規開拓とを進めている。
 こうした同社の取り組みは、BtoCビジネスにより廃業寸前からの業態転換として「中小企業白書·小規模企業白書」にも取り上げられる事例となっている。業態変革の事例としてこのように「下請けからの脱却」「BtoBからBtoCへの進出」が多くみられる。LPガス小売販売業の場合はLPガスの輸入元売等の販売代理業であって下請けではなく、またもともとエンドユーザーに販売するBtoCビジネスである。しかし、エンドユーザーの顔が見えているか、消費者の声を新しい商品(=サービスと言い換えでもいい)の開発に活かしているかというと、甚だ心もとない。BtoB製造業のBtoC転換成功例で見習うべきは、顧客からの声を商品化する姿勢にあると言えるだろう。

『しっぽ貸し手』 山本製作所販売サイトより

 現在日常生活に必要不可欠となっている“マスク”を一時保管できる『しっぽ貸し手』を開発!
 銅又は真鍮銅合金材には、殺菌作用やウイルスなどの繁殖を防ぐ“不活性効果”があり、プラスチックやステンレスと比較してもウイルス感染値が低いことが証明されています。
 米医学誌“ニューイングランド医学ジャーナル誌”が発表した米国カリフォルニア大学の研究チームのコロナウイルス(SARS-CoV-2)の生存期間最新データでは、「銅又は銅合金のコロナウイルス生存率は他素材と比較しても著しく低い」というデータが発表されています。(2008年3月、米国環境保護庁(EPA)より、「銅、真鍮、ブロンズなどは人体に有害な致死性のある病原体を※殺菌し、公衆衛生に効果がある」〈※米国環境保護庁の基準による殺菌とは、細菌を2時間以内でほとんどゼロにすることを指します〉という表示が法的に認可されました)

しっぽ使っ手

しっぽ使っ手

しっぽ貸し手

しっぽ貸し手

にゃんたー

にゃんたー

 弊社(山本製作所有限会社)の商品にはJIS規格の銅合金60%以上配合の“真鍮材”を材料に採用し、金属特有の不活性効果を最大限発揮できるように表面処理はあえて施さず、削りだし後は全て手作業で仕上げています。
 皆様に安心して使い続けて頂ける正真正銘『MADE IN JAPAN』です!

会社
会社
輸入車のカスタムパーツ加工
輸入車のカスタムパーツ加工
自動車エンジン試作型
自動車エンジン試作型

山本製作所有限会社

社名山本製作所有限会社

住所〒754-1102 山口県山口市秋穂西3106-1

設立1975年5月30日

資本金3,000万円

従業員数6名

事業内容

金属切削加工・金属製品の企画・設計・試作・製造

生活雑貨の企画・設計及び製造

オンライン通販運営(yss-brand オンラインショップ)

かき氷製造・販売(かき氷屋Doux Coeur)

参考資料

▷2021年版中小企業白書· 小規模企業白書~中小企業の新事業展開事例集 概要~/中小企業庁

▷朝日新聞デジタル「猫の手を借りて思いついた!」2020/8/4、2020/8/5 健康経営の推進について/経済産業省ヘルスケア産業課

 山本製作所有限会社ホームページ

 廃業寸前から一転!「自社の強み」を洗い出し、唯一無二の町工場へ 愛知県豊川市· 山本製作所(前編)

 廃業寸前から一転!「自社の強み」を洗い出し、唯一無二の町工場へ 愛知県豊川市· 山本製作所(後編)

※記事使用写真は山本製作所ホームページより

コラム09(2023.8.7)

業態変革&新サービス・新ビジネス さまざまな業種・企業の不動産ビジネス

本業に盛衰があることを知り不動産事業でリスクヘッジする

 コロナ禍で観光や宿泊、飲食業あるいは旅客輸送の業界の多くの企業が大きな打撃を受けました。しかし、それらの事業を主力としながらも、経営全体への影響を最小化した企業もあります。その中の少なくない企業が、不動産事業でリスクヘッジをしていました。

鉄道会社はコロナ禍の打撃を不動産で緩和

 本会12月例会で異業種の話題として「感染症後の鉄道事業、業界について」の講演(事前収録)を行った時津孝之氏(元・京王電鉄)によると、コロナ禍で大手民鉄各社は鉄道収益が大きく落ち込む中で、堅調な不動産業の比重が高かった東急などは、グループ全体への影響が軽微であったと解説しています。
 ちなみに東急の事業売上の構成比(2021年)は、交通が18%、不動産が24%、生活サービス事業が5%、ホテル・リゾートが5%となっています。東急の不動産開発は旺盛で、渋谷再開発での渋谷スクランブルスクエア第1期が2019年に開業し、第2期が27年開業予定。東急歌舞伎町開発は、47階建ての劇場、ホテルを中心とした東急歌舞伎町タワーが2023年春に開業する予定です。

東急渋谷再開発の概要(東急渋谷再開発サイトより)

東急渋谷再開発の概要(東急渋谷再開発サイトより)

 また、コロナ禍で稼ぎ頭の新幹線などが落ち込んだJR東海は、前年比で落ち込みが大きかった2021年3月期第3四半期で運輸業882億1,400万円の赤字、流通業103億2,500万円の赤字と惨憺たるものでしたが、不動産事業だけが115億1,900万円と黒字を確保しています。
 日本の鉄道会社、私鉄は時津氏の講演にもあった阪急創業者・小林一三が発案した鉄道と沿線開発をセットで行うビジネスモデルにより、古くから不動産事業を手掛けてきました。そのため土地も多く所有し、「土地をたくさん持っているトップ500社」(東洋経済オンライン、2014年)の中で、旧国鉄のJR東海(2位)を筆頭に、JR東日本(4位)、阪急阪神(9位)、西武(10位)、JR西日本(13位)、近鉄(14位)、東急(16位)、東武(17位)と、上位20社のうちの8社を鉄道会社が占めています。各社、こうした不動産の基盤とそのビジネスが、本業の落ち込みによる打撃を緩和したわけです。

本業の衰退を不動産事業で支える例は今も昔も

 鉄道会社以外にも、本業の落ち込みを不動産事業でカバーした企業・業種は多数あります。コロナ禍でレジャー産業も痛手を受けましたが、映画・演劇の制作や興行を本業とする松竹は、入場人員制限などにより前年比で落ち込みが大きかった2021年2月期第3四半期で、映像関連事業が前年同期比46.1%減(226億4,000万円)、演劇事業が同79.4%減(44億800万円)となっています。しかし、不動産事業は前年同期比1.9%増(88億7,000万円)と堅調でした。

松竹の不動産事業。主なテナントビル(松竹の会社案内より)

松竹の不動産事業。主なテナントビル(松竹の会社案内より)

 映画産業が不動産事業に助けられるということは、コロナ禍に始まったことではありません。1950年代に最盛期を迎えた映画業界は、60年代のテレビの普及とともに急激に凋落します。大手映画会社と言われた大映や日活は、70年代に姿を消します。東映も苦戦し、テレビアニメの制作や各種レジャー事業への転換を図っていきますが、その間を支えた事業分野の一つが、不動産事業だったようです。
 東映は映画事業の全盛期に全国各地の繁華街に直営映画館を建設、買収していました。映画事業の斜陽化の中で、それらを売却したりテナントビルとして貸すことで利益を確保していきました。
 本業のマーケットが縮小する中、新しい事業への転換を進める過程で不動産事業を収益の柱とする例は、他にもあ3ります。例えば、書籍販売の伸び悩みや雑誌広告の減少に苦しむ大手出版社も、最盛期に購入した不動産による収益で凌いでいます。出版大手・講談社の広告収入は55億2,200万円と前年同期比で6.8%減少していますが、不動産収入は0.4%増加の31億7,300万円となっています。
 すでに講談社は書籍・雑誌といった紙媒体の売上よりデジタル関連事業の売上が上回っているとは言うものの、現状の企業を維持していくために不動産事業は不可欠なものとなっています。これは、小学館や集英社などでも似たようなことが言えるようですし、インターネット情報や広告に押され収入が伸び悩む新聞社やテレビ局も、本業のメディアコンテンツ事業よりも不動産事業に支えられるようになっています。

景気や流行の影響を受けにくい不動産賃貸業

 業種や商品は常に景気の変動や流行の変化の影響を受けます。今回のコロナ禍はその極端な例ですが、本業の業種や商品が未来永劫にわたり継続することはないとも言えます。そのような中で、不動産事業は堅実に行えば本業の低迷や衰退期を支える事業となります。とくに不動産賃貸事業のメリットとしては、景気の変動や流行の変化の影響を短期間に直接受けることなく安定収益を確保することできます。また事業のための費用も修繕計画などによりある程度事前に予測することが可能という点があげられます。
 だからこそ、大手企業の多くは、好調期に土地建物の取得や自社ビルの建設などを行い、利益を資産に代える例が多いわけです。
 そしてこれは現代だけに言えることではなく、遠く江戸時代も、商家の多くが長屋(借家)を経営しました。長屋経営は富裕層の社会貢献であると同時に、大家さん(現代の管理人)を置き家賃徴収をすることで、安定した現金収入を得る目的もありました。今日ほど短いサイクルでの大きな景気変動はなかったものの、商品流行の盛衰や飢饉等による供給難、大火などによる事業存続の危機を想定し、商人たちは本業以外に不動産ビジネスを手掛けたわけです。
 LPガス販売店経営者の中にも、賃貸アパートの経営を行う例が見られます。単なる副業ではなく、ガス事業の次を見つけるための“つなぎ”のビジネスとして位置付けている経営者もいるかもしれません。

出典・参考

 日本民営鉄道協会「大手民鉄データブック」

 東洋経済オンライン「土地をたくさん持っているトップ500社」

 東急ホームページ

 松竹ホームページ

 東映ホームページ

 不動産投資情報サイト楽待

コラム08(2023.8.7)

業態変革&新サービス・新ビジネス 地域密着サービス 有限会社ナルデン

製品安全の観点から顧客密着・地域密着の重要性を再確認

 本連載は今号から、「いきなり『業態変革』を考える前に、まず本業の中でどんな新サービスを生み出した例があるのか」、「本業の延長にどんな新ビジネスの展開例があるのか」についても見ていくこととした。リニューアル第1弾は、地域住民から頼りにされる「街の家電店」の事例から。

電化製品の販売から太陽光発電やリフォーム、さらには福祉へ

 「街の家電店」の奮闘と聞くと、徹底した付加価値営業を重ねてきた東京都町田市の家電店、「でんかのヤマグチ」を思い浮かべる人も多いだろう。“御用聞き営業”を行い、家にこもりがちな高齢の顧客のニーズ、蜂の巣の駆除や病院の送迎など家電製品以外の困りごとにも応えて、電化製品販売やリフォーム事業で高粗利率を誇る企業だ。
 今稿で紹介する有限会社ナルデンも、地域密着で顧客の声に耳を傾けた家電店。同社は和歌山県和歌山市に1971年に創業。ある表彰制度に応募したことをきっかけに、自分たちの存在意義をあらためて実感し、より顧客密着、地域密着へと進んでいったという。
 現在は、その家庭の生活環境にあった家電製品の提案、販売、修理から始まり、オール電化や太陽光発電、リフォームへと業務の幅を拡大。そして、創業当時からの顧客や地域住民の高齢化により、介護に関する悩みを耳にすることが増えたため、2000年に介護用品の販売、レンタルを行う介護部門を新設した。
 電器に関連しない介護分野への進出について、現在の社長である成瀬裕之氏は「創業当時から育ててくださったお客様や地域の皆様の高齢化を感じ、ナルデンとして何かできることはないだろうか? なんとか恩返しをしたい! という想い」(同社ホームページ)だったとしている。

地域密着の家電店は必要 2つの表彰制度で経済産業大臣賞を受賞

同社ホームページより

ホームページ

そんなナルデンが全国的に知られるようになったのが、製品安全対策優良企業制度で受賞したことだ。同社では、2007年から「省エネ型製品普及推進優良店」の認定を受け、3年目の2009年には経済産業大臣賞受賞を果たす。そんなときに、製品安全対策優良企業表彰制度があることを知る。
 当時同社では、介護事業に進出するかたわら、大型スーパーや量販店、ネットによる電化製品の購入が増えることで、地域密着の家電店が減少することを危惧していた。買い物難民が増えるし、メーカー任せのメンテナンス、誤った機器の接続や設置が増える。さらには、地域のコミュニティも失ってしまうからだ。
 そこで、製品安全対策優良企業表彰制度に応募することで、こうした流れに一石を投じることができるのではないかと考えた。同社ではそれまで顧客のもとへ定期的に訪問し、ライフスタイルを把握。さらに、直接質問したりアドバイスしたりできる関係性を築いてきていた。そのため、どの商品をどの場所でどのように使用しているかが把握でき、小さな故障や大きなリコールにも迅速かつ的確に対応できる。安心と安全を顧客に届けるという点で、大企業にも引けをとらないはずだという自負を持っていたことが応募を後押しした。
 同時に、日ごろ当たり前と思って取り組んでいる業務がどのような評価をされるのか、それを知りたい。また、この制度に応募することで、街の家電店が頑張っていることや、その存在意義を広く知ってもらうきっかけにしたいという思いがあった。
 こうして応募した結果、2010年度商務流通審議官賞を見事に受賞。この受賞が、同社にさらなる進化をもたらした。受賞時の審査員からのコメントや総評から、『街の家電店(電気屋さん)品質』に自信を持つことができ、全ての部門でこの品質を徹底しよう、という意識が芽生えた。
 また、同社が受賞したことで、メーカーからユーザーの生の声を聞かせてほしいという要望が届いた。そのため、ユーザー視点に立った意見や要望をメーカーに伝えるなど、小売店という立場でありながらアドバイザーとしてメーカーが製品を企画する段階から参画した。
 さらに、製品安全セミナーなどさまざまな場で講演する機会ができたことも大きかった。講演会などで製品安全について同業者やユーザーに伝えることは、「製品安全対策優良企業に認定された企業の責任であり役割だ」という考えをさらに強く持つに至ったのだ。

消費者目線での商品開発と地域コミュニティ活動を活発化

エアコンチラシ

エアコンチラシ

こうして、2010年度の表彰で得たアドバイスをもとに、製品安全対策優良企業としての取り組みにさらに磨きをかけた同社は、3年後に製品安全対策優良企業表彰制度に2度目の応募をした。その結果、経済産業大臣賞を受賞。これにより、経営陣だけでなく社員のマインドも変化していった。「省エネ提案」と「安心・安全を届ける」という意識が向上。同社の顧客だけでなく、地域住民に向けて製品安全に関する情報発信の重要性を考えるようになった。
 そこで「街の家電店(電気屋さん)品質」でサービスを届けるという方針をたて、これまで以上に地域密着、顧客密着を強化していくことにした。さらに、「家業から企業へ」と成長を遂げようという意識に変化していった。
 周囲の反応も1回目の受賞を上回るものだった。家電以外のメーカーから、製品を取り扱ってほしいという申し出がきたのだ。また、介護用品を扱える街の家電店のグループ展開や、地域の整骨院等との連携で地域密着サービスの強化をスタートさせることができた。

冷蔵庫チラシ

冷蔵庫チラシ

 こうしてさらなる地域密着の活動を行う中で、ある家庭のちょっとした汚れから手すりの必要性に気づく。ヒアリングをすると、長いものは必要ないが、立ち上がるときやドアを開けるときに、障子やカーテンのフックなど、手をかけやすいものを手すりがわりに使っていることがわかった。調べてみると商品はあるが、需要が少ないことから介護保険から外れていた。丁寧に掘り起こしていけば需要があることがわかるのに、流通の簡略化によって発生した問題だと感じた。
 そこでメーカーに現状を話し、小規模事業者持続化補助金を活用して、「ちょこっと手すり」を完成させた。
 さらに、地域密着・顧客密着強化のために向かいのビルを購入し、店舗を拡大。地域コミュニティ事業をスタートさせた。予防介護としての健康体操教室をはじめ、夏休み子ども工作教室、健康料理教室、地元の団体やサッカーチームとのコラボ企画、クリスマスチャリティなどを行っている。
 街の家電店はユーザーに最も近く、ユーザーとメーカーをつなぐことで製品の安全に一番貢献できると自負する同社。製品安全対策優良企業表彰という制度を活用することで、意識を変化させ、さらなる顧客密着・地域密着を進めることができた。
 冒頭に揚げた「でんかのヤマグチ」の話は有名だ。しかし、全国でどれだけの家電店がその成功事例を取り入れているだろうか。取り入れたとしても、継続しているだろうか。ナルデンがヤマグチを真似たかどうかは定かではないが、「小規模店も密着サービスをすれば生き残れる」という事例は、他にも確実にあることを、LPガス販売店もしっかり知っておくべきだろう。

出典

 有限会社ナルデン

写真は同社ホームページより

 ニュース和歌山

製品安全セミナー受賞企業講演資料

有限会社ナルデン

有限会社ナルデン

住所〒641-0036 和歌山県和歌山市西浜1038番地52

電話073-444-5181

設立1971年4月1日

資本金500万円

事業内容

①家電製品販売及び修理

②オール電化用機器販売及び施工

③太陽光発電システム販売及び施工

④リフォーム全般

⑤和歌山県指定福祉用具貸与事業所(介護用品及び福祉用具のレンタル・販売)

コラム07(2023.8.7)

異業種に学ぶ業態変革 吉野川タクシー

業態を変革せず意識を変革する タクシー利用者の固定化 新サービスで新規需要も

 人手不足や人材の高齢化といった課題を抱えている地方のタクシー業界で、綺羅星のごとく輝く経営者がいる。徳島県徳島市、吉野川タクシーの代表取締役社長、近藤洋祐氏だ。祖父が設立したタクシー会社を地元密着のサービスで建て直した上に、ベンチャー企業を立ち上げてタクシー業界が抱える課題を解決した。業態を変えるのではなく意識を変えることで飛躍した中小企業の事例を紹介する。

祖父を支えるために入社するも、ひどい経営環境

 1970年、近藤洋祐氏の祖父により徳島県徳島市に設立された吉野川タクシー。徳島県はタクシーの市場規模が全国で最も小さく、その中でも、所有タクシー9台、従業員13人の吉野川タクシーは最小規模。近藤氏がそんな会社に入ったのは、2009年、24歳のときだった。
 近藤氏は、高校卒業後メジャーリーガーになるという夢を追い求めて単身渡米。大学に通いながらメジャーリーグを目指した。大学では1軍に昇格したこともあったが定着には至らず、怪我などもあって夢を諦めざるを得なかった。
 近藤氏が帰国して間もなく、吉野川タクシーの社長である祖父が脳梗塞を発症。リハビリなどを家族で支えることになった。近藤氏も地元に残ることを選択し、海外展開しているメーカーに入社した。しかし、野球に対する思いがまだ残っていることに気づき、退職して社会人野球のチームに入る。アルバイトを掛け持ちしながら野球に専念し、野球への思いに決着をつけることができた。
 その後、第2種運転免許を取得。祖父をおぶってタクシーに乗せ、病院への送迎をするようになった。そのまま、タクシードライバーとしても働きはじめた。会社を手伝っていた祖母や母は会社をたたむことを考えていたが、近藤氏は自分が継ぐしかないと考えていたからだ。
 しかし、決意とは裏腹に、会社の経営状況は近藤氏が考えていた以上に悪かった。会社が作る赤字を祖父母の年金で補填するような状況に、「なんのために経営しているのだろうか」と疑問に感じたこともあった。従業員の平均年齢は60歳を超え、活気もない。とにかく自分が頑張る以外に道はなかった。

同社ホームページより

同社ホームページより

費用を最小限に抑えながらアナログからデジタルへ

 タクシー運転手として働く中で、さまざまな課題が見えてきた。その一つがアナログによる配車業務だ。
 需要の多い都市部であればタクシーを走行させながら客を拾う「流し」の営業も効果的だが、人口密度の低い地方では効率が悪い。そこで、配車のための要員を確保し、配車の依頼を電話で受け付け、依頼場所に向かえそうな運転手に無線で連絡する。これが配車業務だ。
 しかし、依頼場所や時間の聞き間違い、運転手への伝達ミスなどによるトラブルが少なくなかった。人員確保や無線機器の維持管理の問題もある。地方のタクシー会社の生命線でもあるだけに、配車業務に関わる課題は重い。
 また、顧客情報の管理にも課題を感じていた。せっかく配車業務で顧客情報を得ても、それを記録に残すことをしていなかった。また、通院や仕事の都合などで定期的に利用する常連客もいたが、そうした情報を社内で共有することはなく、運転手個人個人が自分の情報として確保していた。
 タクシーは移動手段の一つだが、掘り下げると利用者によって目的はさまざまだ。足が悪くて遠い距離を歩けない。荷物が多い買い物帰りに利用したい。各顧客が持つこうしたニーズをあらかじめ把握しておけば、きめ細やかなサービスをどの運転手でも行える。
 2012年に運転手から経営者になった近藤氏は、ITを導入してこうした課題の解決に動いた。目をつけたのがタブレットだった。自社で配車管理システムを構築しようとすると莫大な費用がかかる。しかし、タブレットと既存のアプリを使えば費用を抑えて利用できる。位置情報検索やトランシーバー機能、電話番号から乗客の情報を紐付けるアプリも入れて各タクシーに掲載した。これで、伝達ミスがなくなるほか、顧客情報も共有できる。
 こうしたIT化により効率化は図れたが、古参のドライバーから反発があり、その多くが辞めていった。しかし、近藤氏が目指した顧客のニーズに応えるサービスは功を奏し、リピーターが増え始めた。

生涯を通して利用してもらえるサービスづくり

各種サービスのロゴマーク

各種サービスのロゴマーク

 IT化でデータを蓄積できるようになったことで、次のサービスにもつながった。タクシーの需要は朝と夕方に集中する。肌感覚ではわかっていたことだが数値化することでしっかり把握できた。収益増を目指すなら、日中のアイドルタイムをいかになくすかを考えなければならない。
 市場調査をしてみると、タクシーを利用したいと考えている主婦や妊産婦の声に気づいた。特に妊産婦からは、「乗車拒否されることがあるので使えない」という切実な訴えもあった。そこで、会員制の妊産婦送迎サービス「マタニティタクシー」と、学習塾に行く子どもを送迎する「キッズタクシー」をスタートさせた。
 マタニティタクシーは住んでいる場所と通院先、支払いの設定をインターネットで登録できる。一度登録しておけば2回目以降は入力なしで利用できる。利用者も、また配車業務としても簡素化が図れるのだ。
 これらのサービスは妊産婦や働く両親のニーズに応えただけではない。マタニティタクシーを利用した顧客には、数年後キッズタクシーを利用してもらう。生涯を通じて吉野川タクシーを選んでもらえるサービスを考えたのだ。
サンタクシー。同社Facebook より

サンタクシー。同社Facebook より

 こうした施策により、近藤氏が入社した2009年から役員になる2012年までは年商5,000万円程度だったのが、2015年にはタクシーの台数を増やさずに1.5倍の7,500万円にまで引き上げることができた。
 さらに近藤氏は、クラウド型配車センターとクラウド型配車システムを提供する「電脳交通」というITベンチャーを立ち上げた。全国のタクシー会社が抱える配車システムの課題をクラウド型のシステムにより解決しようというものだ。
 電脳交通のサービスは地方の中小タクシー会社から始まり、大手の第一交通産業やエムケイにも提供されている。さらにNTTドコモベンチャーズ、MobilityTechnologies(旧JapanTaxi)、JR西日本イノベーションズ、三菱商事といった大手企業と資本提携。社員も100名を超え、今、注目のベンチャー企業へと成長している。  地域密着のタクシー業界において、自社で培った経験と問題意識からITにより解決策を作り出し、全国展開を図った近藤氏。他業界でも参考になる事例といえるだろう。

吉野川タクシー沿革

1970年
・吉野川タクシー有限会社、タクシー業として徳島市に創業。
2009年
・外国人通訳サービスを開始。
2010年
・大型車を導入。ハイヤーサービスを開始。
2012年
・株式会社あわわと提携し、県内初タクシー車内でタウン情報誌の無料配布を開始。
・中型車輌のベース車をトヨタクラウンコンフォートからプリウスαへ変更。
・代表取締役に近藤洋祐が就任。
2013年
・徳島県観光ユニバーサルデザイン大賞受賞。
・県内初の妊産婦送迎サービス『Limoマタニティタクシー®』を開始。
2014年
・中型車輌のベース車をトヨタコンフォートからトヨタ カローラアクシオHVへ変更。
・すべてのタクシー車輛でスマートフォン無料充電サービスを開始。
・クラウドタクシー配車システムを導入。すべてのタクシーにタブレットを配備し、インターネット経由で配車を行う。
・スマートフォン配車アプリ『smartaxi(R)』をAppStore/GooglePlayでリリース。
・国土交通省徳島運輸局より自動車関連功労企業として表彰を受ける。
・サンタクロースのコスプレをした乗務員『サンタクシー』サービスを期間限定で開始
2015年
・全国初、学習塾へ通う小中学生向けライドシェア(相乗り)サービス『Limoキッズタクシー®』開始

https://ja.wikipedia.org/ほかを参考に作成

出典

 吉野川タクシー有限会社

 日経ビジネス

 Turn up 徳島

 徳島経済 vol.106

吉野川タクシー有限会社

住所徳島市川内町平石若宮8-6

電話088-665-2051

コラム06(2023.8.7)

異業種に学ぶ業態変革 木原製作所

明治創業以来培った技術を進化させ省エネを叶える食品乾燥機を開発

 常温での長期保存を可能にする食品乾燥。その歴史は古く、縄文時代から用いられてきたとも言われる方法だ。しかも、乾燥させることで栄養素が高まることがわかり、ますます注目度があがっている。そんな食品乾燥の分野で存在感を高めているのが、葉たばこ乾燥機製作で長い歴史を持つ木原製作所だ。

製塩釜から葉たばこ乾燥機の製造へ

 山口市南部、秋穂湾に面した製塩業が盛んな地域に木原製作所はある。1902年(明治35年)創業の同社は、製塩釜や農機具などを製作する会社として誕生した。その後、塩同様に専売品であった葉たばこの乾燥機事業に乗り出す。戦前は、葉たばこ乾燥機メーカーは全国に3社のみ。今も続く葉たばこ乾燥機メーカーの中では最古参で、シェア5割を誇った。
 しかし、昭和の後期からの健康志向の高まりにより、喫煙率が大きく下がっていった。男性喫煙率は1965年に80%以上あったが、2002年には50%を切るまでに。当然国内の葉たばこの耕作面積も減っていた。そんな葉たばこ乾燥機メーカーとして斜陽期を迎えていた2003年に、3代目社長の2人の息子、木原康博氏と利昌氏は入社した。

成人喫煙率の推移(JT全国喫煙者率調査より)とたばこ販売量(日本たばこ協会より)

成人喫煙率の推移(JT全国喫煙者率調査より)とたばこ販売量(日本たばこ協会より)。
喫煙者の減少は当然たばこ販売量の減少となり、生産量の減少に直結する。

 2人は、東京の大学を卒業後、知人の勧めでアメリカのビジネススクールでプロジェクトマネジメントやマーケティングを学んでいた。卒業後は家業とは別の会社で働くつもりで、就職活動をしていた。そうしたある日、社長である父ががんになったという知らせを受け、帰国して入社することを決めた。
 木原製作所という社名から、なにか機械を作っているとは思っていたが、葉たばこ乾燥機だとは知らなかったし、会社の状況は全く理解していなかった。入社してみると驚きの連続だった。
 当時、同社では葉たばこ乾燥機の売上が会社全体の8割を占めていた。入社後、取引先である葉たばこ農家を訪れると、どの農家も高齢化で跡継ぎ問題を抱えていた。その状況に危機感を覚えた。
 しかし、会社の雰囲気はのんびりとしたものだった。社員は葉たばこ農家の高齢化やたばこ需要の減少は理解していたが、危機感を抱いている様子はなかった。
 そこで、新しい柱となる事業を探すとともに、社内の意識改革に取り組みはじめた。社内の整理整頓といった5S活動の導入や営業目標の設定、そしてISO9001認証取得により、品質管理のマネジメント体制を整えた。

葉たばこ乾燥機の開発で培った独自技術に未来を託す

 葉たばこ乾燥機に代わる新しい事業を模索する中、リーマンショックの影響が同社を襲った。葉たばこ乾燥機以外の売上2割を支えていた半導体機械のOEMがほとんどなくなってしまったのだ。2本目の柱としてこの事業をしっかり育てて行こうと考えていた矢先のことだった。
 幸いなことに父は病気から回復することができたが、父の意向もあって2008年に康博氏が社長の座につくことになった。葉たばこ乾燥機に代わる新しい柱を見出し、育てるには、康博氏なりの新しいやり方でやったほうがよい、という考えからだ。
 いよいよ待ったなしという状況に陥ったころ、2年ほど前から着手していた食品乾燥機が完成した。康博氏と利昌氏が話し合う中で、葉たばこ乾燥で培った温度と湿度を管理する独自の乾燥技術を応用した新製品の開発に乗り出していたのだ。
 乾燥機には熱風乾燥、冷風乾燥、減圧乾燥、真空凍結乾燥(フリーズドライ)、遠赤外線乾燥など様々な方法がある。同社は灯油やガス、電気を熱源として熱空気を作り送風機で乾燥機に送り込む熱風乾燥方式の機械を製作してきた。熱源を得やすく、構造がシンプルなので低コストで作ることができ、壊れにくくメンテナンスがしやすい。
 ただし、高温で一気に乾燥させると、表面はカラカラになっても内面に水分が残る。そこで、同社では日本専売公社(現日本たばこ産業)と共同研究により、温度と湿度の両方を管理しながら内部も完全に乾燥させる技術を開発していた。この方法で乾燥させると、香りがよく残る。さらに色や艶も残ることから食品乾燥に向いていると判断したのだ。

木原製作所の業態変革 木原製作所の業態変革

6次産業化
農山漁村が生産・収穫(1次産業)のみにとどまらず、食品加工(2次産業)から販売・流通(3次産業)まで総合的に関与することで1次産品の高付加価値化に取り組み、農山漁村の収益向上から地域振興に繋げていこうとする活動のこと。「1次産業×2次産業×3次産業=6次産業」となり、1次産品のブランド化や地域活性化にはどの産業が欠けてもいけないということを意味する。東京大学名誉教授の今村奈良臣(いまむら ならおみ)先生による造語。(木原製作所ホームページより)

食品分野で初めての優秀省エネルギー機器表彰

木原製作所の家庭用小型乾燥機

木原製作所の家庭用小型乾燥機。
購入者にはレシピ集をつけている。

 食品乾燥といっても幅広い。そこで最初に目を付けたのが椎茸の乾燥機だった。中山間地域では葉たばこ農家とともに椎茸農家も多く入り込みやすい。また、国内の干し椎茸は機械で乾燥するのが一般的だが、質を高めるには、技術が必要だと聞いていた。同社でも30年前から椎茸用の乾燥機を製造していたが、温湿度管理技術は取り入れておらず、葉たばこ乾燥機製作の合間に製作しているにすぎなかった。ここに改良の余地があると感じた。
 熟練の農家でなくても簡単に干し椎茸が作れることを目指し、大分の椎茸農家に出向いて温度と湿度の最も良い組み合わせを探した。さらに、湿度を一定に保ちながら、熱風を排気せずに乾燥機内で循環させる方法を確立し、従来型の機械と比べて燃費を70%も下げることに成功した。
 こうして2年の歳月をかけて新製品を完成させた。しかし、認知されなければ売上につながらない。これまで葉たばこという限られた中で営業をしてきた社員にとっても、知名度があがれば営業がしやすくなる。そこで、さまざまなコンテストに応募することにした。
 すると、2010年に省エネルギー性が評価され、優秀省エネルギー機器表彰を受賞することができた。食品・農林水産物用乾燥機としては初めてのことだった。
 これにより売上が少しずつ増えていき、椎茸以外の食品乾燥機開発にもはずみがついた。また、その後も内閣総理大臣表彰制度の「ものづくり日本大賞」、文部科学大臣表彰制度「科学技術賞」、経済産業大臣表彰制度「はばたく中小企業・小規模事業者300社」など数々の賞を受けた。
 食品を乾燥させて長期保存を可能にすれば食品ロスを防ぐこともでき、日本だけでなく世界中の農家の助けにもなる。現在同社では、乾燥加工の技術とノウハウをもとに第6次産業や地方創生にも貢献している。

出典

 株式会社木原製作所

 『理念と経営』

 Forbs Japan 2021.06.15

 Forbs Japan 2021.12.07

 月刊商工会誌

株式会社木原製作所

住所〒754-1102 山口県山口市秋穂西3106-1

電話083-984-2211

コラム05(2023.8.7)

異業種に学ぶ業態変革 ニシウラ

インフラづくりから介護ビジネスへ 大きく舵を切った先に現れた介護用品メーカーという業態

 道路や砂防ダムの建設から、介護用住宅のリフォーム事業への特化、さらには大人向けおむつなど介護関連用品の製造・販売へと業態変革を図ったニシウラ。公的制度頼みのビジネスから脱却し、成功のカギとなったのは、顧客の声を拾い、商品開発に生かした点にある。

インフラづくりに携わるも公共事業の縮小で経営悪化

 1980年に鳥取県鳥取市で設立された株式会社西浦組は、道路や砂防ダムといった公共事業を中心としたインフラづくりに携わってきた会社だ。ところが、公共事業の縮小により、従来の事業だけでは会社が立ち行かなくなってしまった。数カ月も工事がない中で、生き残るためにはこれまでとは別の分野へ参入しなければならないという状況に陥ったのだ。
 社内の一級建築士の技術を生かそうと、リフォーム分野、なかでも需要拡大が見込まれる介護用住宅のリフォームに目をつけた。まずは介護住宅やバリアフリーに関する研修に参加。さらに、福祉住環境コーディネーターといった資格も取得して、受注件数を増やしていった。
 ところが、発注者は国の補助金を利用していることが多く、補助金制度が縮小されると、売上が激減してしまう。間接的とはいえ制度頼みでは、公共事業を受注していたときと変わらない。そこで、福祉分野を拡充し、医療介護用品の販売やレンタル事業を開始した。そんな中、創業社長が病で倒れ、長男である西浦伸忠氏が社長に就任した。
 それまで経営に関与してなかった伸忠氏。社長になって初めて事業規模を超える借り入れがあることを知った。メインバンクにも融資を断られ、税理士からもさじを投げられた。そんなときに藁をもつかむ思いで頼ったのが商工会だった。
 商工会に相談してはっきりとしたのが、1カ月後には倒産するということだった。一刻の猶予もない。建設業からは完全に撤退することを決め、所有していた重機をすべて売却して支払いにあてた。また、リフォーム代金の一部を前金として受け取る方法を商工会で教わり、それも支払いにまわした。

県内唯一の「おむつフィッター1級」取得で開けた視界

 会社の状況を正直に伝えると、20人いた社員は2人に減ってしまった。その状況にショックを受けながらも、残ってくれた社員のためにも会社を建て直さなければならないと気持ちを奮い立たせた。
 建設業から撤退し、介護一本に絞ったが、まだまだ会社を支える柱には成長していない。より専門性を高めなければ苦しい状況を脱することはできないと考えた伸忠氏は、残ってくれた一級建築士の資格を持つ社員に介護住宅のリフォームを任せ、自分はおむつの勉強を、そして弟で専務取締役の西浦将彦氏は車椅子の勉強をはじめた。リフォームや介護用品のレンタルでユーザーのもとを訪れた際に、おむつや車椅子について相談を受けることが多かったのがその理由だ。
 伸忠氏は京都にある排泄用具の情報館「むつき庵」でおむつの勉強を重ね、同施設が認定する「おむつフィッター1級」の資格を2008年に取得。当時鳥取県内で唯一の資格取得者ということで、地元紙でも取り上げられ、おむつに関する問い合わせがくるようになった。
 また、介護施設や病院におむつを納入するだけでなく、おむつの使い方や在庫のデータ管理の勉強会も開催。これにより、取引先が徐々に拡大していった。この実績が認められ、王子製紙の販売特約店となった。
 さらに、おむつに関する講演活動を行う中で、鳥取大学医学部付属病院の中山敏准教授と出会い、意気投合。王子製紙も巻き込み、大人用紙おむつの共同開発に着手した。中山准教授がおむつの中で尿がどのように広がるかをCTスキャンによって解明。そうした研究結果を生かしてできたのが「アテントダブルブロックタイプ」だ。この商品は2015年度の中国地方発明表彰で、鳥取県発明協会会長賞を受賞した。
 こうした取り組みにより、鳥取県を中心とした病院、介護施設へのおむつの納入シェアは50%を超えるまでに成長した。

自社製品の直販を行うニシウラのホームページ自社製品の直販を行うニシウラのホームページ
自社製品の直販を行うニシウラのホームページ
ヨッコイショクッション
「ヨッコイショクッション」。車椅子使用者の“悩み”を解決するところから生まれた自社開発商品。体圧を分散させる構造で、長時間座っていても身体への負担を軽減させる工夫がされている。
ヨッコイショテーブル
「ヨッコイショテーブル」。車椅子の利用時、特に食事という場面での座位姿勢に着目。誤嚥などのトラブルを防ぎ、よりよい姿勢で食事を楽しむことを目的とした取付テーブル。車椅子への取付部分は特許を出願。
祖業である「建築業」時代から続けてきた介護住宅リフォーム
祖業である「建築業」時代から続けてきた介護住宅リフォーム。これまで、建築のスペシャリストである一級建築士や福祉のプロである福祉住環境コーディネーターが、顧客それぞれの不便や不安を解消し、「介護住宅リフォーム専門業者」として多くの受注実績を積んでいる。

(写真はニシウラのホームページ、商品販売サイトより)

ユーザーの声を生かした製品づくりで認知度アップ

 介護用品の開発はそれだけではなかった。医療機関や介護施設で車椅子への要望を聞いていた弟の将彦氏が、筋力の弱いお年寄りが車椅子で身体を安定させられるようにと、車椅子専用のクッションを開発。さらに、テーブルにも着手。車椅子に設置し、テーブルに肘をおくことで、食事や作業中に姿勢を安定させることができるようにした。これらを「ヨッコイショ」シリーズと命名した。
 このヨッコイショシリーズの特許を取得した上で、介護用品のメーカー各社にOEMで供給して露出を増やした。また、医療福祉器具の博覧会では、大きなスペースで出展し、車椅子に関するメーカーであることをアピールして、知名度を上げていった。
 その後も、車椅子に乗りながら足元を支える台や、ベッドパッド、難燃性圧縮毛布などさまざまな製品を生み出し、利用者のニーズに応えている。
 こうした取り組みが評価され、2017年には鳥取県経営確信大賞を受賞。特許庁発行の広報誌「TokkyoWalker」やテレビなどにも取り上げられている。
 建築業で倒産が目前に迫るほど悪化した経営状態から、住宅リフォーム、大人用おむつ、そして介護用品の開発、製造、販売、レンタルへと事業を広げ起死回生を果たした同社。新しい業界へ飛び込むことは勇気が必要だが、必死に学ぶとともにユーザーの声に耳を傾け、ニーズに応える製品づくりをしたことが、成功へとつながったのではないだろうか。

出典

 株式会社ニシウラ

 中小企業庁 小規模企業白書 2015年版

 日本の社長

株式会社ニシウラ

住所〒680-1243 鳥取県鳥取市河原町佐貫1093 番地8

電話0858-85-0601

(業務内容)

◎介護製品の開発・OEM受託

 〈車椅子用クッション〉従来の他社製品の7割程度の価格での販売を実現し、よりニーズに対応できる環境を整備している。

 〈車椅子用テーブル〉車椅子に取り付けられる車椅子テーブルを自社オリジナルで製作。片麻痺等障害状況に幅広く対応できるよう工夫をしている。

◎車椅子、紙おむつ、消耗品などの福祉用具のレンタルと販売

 福祉用具の販売・レンタルは一般的にアフターフォローがされない。同社では定期的なフォローを行い、利用者状況の変化やニーズに素早く対応している。

◎介護リフォーム 建築設計施工

 専門家(1級建築士、福祉住環境コーディネーターなど)が単なるバリアフリー工事にとどまることなく、顧客ニーズに応じたQOL(クオリティ・オブ・ライフ。生活の質)向上のための提案・施工を実施。また、関係者(病院や福祉施設の医師、作業療法士等)と連携対応している。

コラム04(2023.8.7)

異業種に学ぶ業態変革 ブラザー工業

ミシンから情報通信機へ 祖業の技術を生かし時代変化に対応した事業を展開

 英語のsewing machine(ソーイング・マシン)から転じた日本の「ミシン」は、戦後になって一般家庭用が広く普及し、1950 年代後半には参入する製造メーカーが60社を超えていた。しかし、生産拠点の海外移転や既製服の低廉化による一般家庭でのミシンの需要減により、家庭用ミシンを製造販売する国内メーカーの多くは、転廃業を余儀なくされている。生き残った家庭用ミシンメーカーの例として、ブラザー工業を取り上げる。

海外展開と多角化の取り組み

 ブラザー工業の始まりは、安井兼吉氏が1908年に創業した「安井ミシン商会」で、ミシンの修理と部品の製造を行っていた。1934年に「日本ミシン製造株式会社」を設立、6年後の1940年にはミシンの国産化を実現し、名実ともにミシンメーカーとしての経営基盤を確立した。
 1950年代半ばから日本国内におけるミシン製造販売の競争が激化するが、この頃には同社は既に海外でも事業展開をしている。1962年、現在の「ブラザー工業株式会社」へと社名を変更。同時期から、製品の多角化を進めていった。編機、楽器、工作機械のほか、ミシンで培ったモーター技術や精密機械技術を応用して、洗濯機や掃除機、扇風機といった家電製品も開発し、販売を始めたのである。
 海外においては、1961年に欧文タイプライターを発売。ミシンや編機で培った切削・プレス加工、プレス成型技術を生かしたブラザー製のタイプライターは、コストパフォーマンスの高さから、特にアメリカにおいて売上を伸ばした。そこには、ミシン輸出でのブランドの浸透も奏功したようである。

業績の低迷、新規事業の苦戦

 1970年代は、電化製品の開発・販売や、ミシン、タイプライターなど既存製品の電子化を進めていった。1971年に小型コンピューター用の高速ドットプリンターを販売、1979年には、業界初の家庭用コンピューターミシンの生産を始めた。
 1980年代に入るとワープロやパソコンの普及が進み、主力製品であるタイプライターの販売に暗雲が漂う。ブラザー工業としては自社ブランド同士の競合になるものの、市場開拓のために日本語ワープロ「ピコワード」の発売に踏み切った。ピコワードは熱転写方式でありながら10万円以下で買えるワープロとして商業的な成功を収める。しかし数年の間に大手家電メーカーや情報機器メーカーがワープロ市場に参入し、ピコワードは撤退を余儀なくされた。
 タイプライターの不振やワープロ事業の撤退に加え、1985年からの急激な円高によりブラザー工業の業績は低迷し始める。ミシンに関しても、海外向け製品の輸出が円高の影響を受けただけではなく、国内向けミシンも生活環境の変化などによる需要低下で販売不振に陥っていた。
 同時期に、やはりアメリカ市場でタイプライターを製造販売していた日本のミシン製造メーカー・シルバー精工は、この時の打撃からなかなか立ち直ることができず、1985年以降、業績を回復できないままに2011年1月に上場廃止、同年12月に破産手続き決定となっていた。
 ブラザー工業は業績悪化から脱却するため、1980年代後半に情報通信機器事業への本格参入に取り組む。1986年には通信によるパソコンソフト自動販売機「TAKERU」の運営を開始、1987年にファクス事業、1988年にカラーコピー事業に参入した。
 しかし、いずれの事業も業績回復や企業の成長にはつながらなかった。「TAKERU」は画期的であるがゆえに時期尚早、カラーコピー機も需要が少なく時期尚早であった。ファクス事業においては、既に30社以上が参入していた市場で苦戦し、約4年で撤退するに至った。

1990年代に入ってからの「選択と集中」

最新の家庭用ミシン

最新の家庭用ミシン

 業績回復への転機は、情報通信機事業に軸足をおくようになったことである。1989年に社長に就任した安井義博氏は、欧文タイプライター事業で培ったプリンティング技術にフォーカスした事業展開を明確に示した。家電事業とカラーコピー事業からの撤退は、その志向を顕著にあらわしたといえる。
 情報通信機器事業を主力にすべく、ブラザー工業がターゲットにしたのはアメリカの市場だった。その理由は、アメリカではタイプライターのブランドとしてブラザーの認知度が高かったこと、小規模事業者向けの量販店が新たな流通経路になり得ると考えたことなどが挙げられる。
 1992年に発売された「FAX-600」は、当時のアメリカにおける従来品の約半額で買える“399ドル・ファクス”として大成功をおさめる。低価格ながら高性能であることが高い評価につながった。また、熱転写方式により普通紙に印刷ができる「普通紙ファクス」も続けて発売した。
 タイプライター事業で培われたプリンティング技術が十数年後に生かされ、ブラザー工業が転身の契機を得ることになったのである。この技術は、タイプライター、パソコン用プリンター、ワープロといった製品で培われた「従来技術」であった。さらに、将来的な事業展開や企業としての成長のために、ブラザー工業は電子写真方式(レーザープリンタ)の自社開発を始める。
 1995年にはアメリカで、電子写真方式を採用した小型複合機「MFC-4550」を発売。それまでの複合機は、企業向けの大型で高性能、高価格な製品だった。「MFC-4550」は、SOHOのユーザー向けに機能を絞り込み、小型で低コストを実現し、大ヒット商品となった。

現在の主力である複合機

現在の主力である複合機

 このようにファクスと複合機の成功を経て、ブラザー工業は情報通信機器を中心とした事業展開を実現させた。
 2020年におけるブラザー工業の事業別売上比率をみると、プリンター・複合機などが60.9%、産業用プリンターが11.1%、家庭用ミシンは8.5%と、今や情報通信機器事業が本業といえる。

 ブラザー工業の新規事業の取り組みを総括すると、転機は1990年代に入って「選択と集中」を行ったことにある。タイプライター事業で培ったプリンティング技術のさらなる開発、内製化、応用製品の事業化への取り組みと、その応用製品の代表格であるファクスと複合機の市場をアメリカに求め、独自の販路で展開したことが成功へとつながったと言えるだろう。
 ブラザー工業には長きにわたる経営の中で培った、さまざまな従来技術を保有していたものの、それらは「競争優位になり得る経営資源」というほどではなかった。ブラザー工業の場合は事業展開を行いながら、ある意味、試行錯誤をしながら、競争優位となる中核的能力を得て業態変革を実現したといえるだろう。

戦後日本の家庭用ミシンの盛衰

 戦後の日本で家庭用ミシンが普及した要因の一つは、既婚女性の多くが家庭外で労働しなかったため、内職に使用することで副収入を得られるミシンが「嫁入り道具」として多く使われたことも大きいとされている。1947年に家庭用ミシンの規格が統一され、1948年から規格に基づいた製品の出荷が開始され、一般家庭への普及が進む。1956年のミシンの全国普及率は75%とされ、60年代まで多くの家庭で愛用されていた。しかし70年代に入ると、既製服の低廉化が進むとともに、パートタイマー勤務主婦の増加などにより、ミシンの需要は減少してくる。とくに1980年代に入ってからは、国内の一般家庭でミシンはほとんど見られなくなっていった。

 60年代の家庭用ミシンの主要メーカーは、アメリカのシンガー、蛇の目(ジャノメ)、東京重機(JUKI)、リッカー、シルバー、そしてブラザーなどである。このうち、独自の前払割賦制度によりトップシェアを獲得したこともあるリッカーは80年代に急激に業績を悪化させ、粉飾決算により倒産。1世紀以上にもわたって家庭用ミシンの世界的なトップブランドであり続けたアメリカのシンガーも、1980年代にミシン部門を売却、1999年には連邦破産法を申請している。

 ジャノメ、JUKI、ブラザーは現在もミシンの製造販売を続けているが、主力は輸出向けの工業用であり、またミシン以外の事業の拡充を進めている。工業用ではJUKI が世界シェア1位であり、日本での家庭用ミシンの市場が急激に縮小し、多くのメーカーが凋落する中で、「日本3大大手ミシン会社」と言われる3 社はともに、多角化に成功したことが本業の堅持にもつながったとされている。

1956年のブラザー編み機、ミシンの広告
1956年のブラザー編み機、ミシンの広告

出典

 『本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか』(KADOKAWA、山田 英夫 (著), 手嶋 友希 (著))

 ブラザー工業ホームページグループ企業情報

 プレスリリース・ニュースリリース配信サービスPR TIMES

(写真はブラザ―工業ホームページ、ウィキペディアより転載)

コラム03(2023.8.7)

異業種に学ぶ業態変革 鎌倉新書

入社から四半世紀を経て上場企業へ 時代を読む力と粘り強さが成功のカギ

 「餅は餅屋」という言葉がある。その道のことは専門家が一番というたとえだが、自社にとっての「餅」は何かを繰り返し問い直し、その餅をどのように消費者に届けるかを変化させていくことで業態変革を成し遂げ、東証一部上場を果たした企業がある。今回取り上げる鎌倉新書だ。

借入が売上の3倍 ターゲットをかえて売上アップを図る

 鎌倉新書は、現在の会長兼CEOである清水祐孝氏の父親が仏教書や仏壇仏具の専門出版社として1984 年に創業した会社だ。創業から6年経った1990年、父から事業を手伝ってくれと言われた清水氏は、それまで勤めていた証券会社を辞めて鎌倉新書に入社した。27歳のときのことだ。
 入社してみると、売上に対する借入金は3倍ほどにのぼっていた。取引先である印刷会社には買掛金の支払いを猶予してもらったり、社員の給料が遅れたりすることもあった。その影響で1 人いた社員も辞めてしまった。
 借入金を減らし、正常な経営状態に戻すためには、売上を増やさなければならない。しかし、仏教書や仏具といった専門書では購買層が限られている。そこで、清水氏はターゲットを広げることを考えた。
 家族が亡くなれば、葬儀や仏壇、お墓にはお金をかける。調べてみると、当時の葬儀市場は個人消費だけでも1兆円の規模があった。また、仏壇やお墓といった周辺の領域を加えると市場規模2兆円にのぼり、業者も多い。こうした供養に関わる業者を対象にした印刷物を手掛けることにしたのだ。
 対象を広げることで、これまで寺院の取材では出てこなかった一般消費者の情報に触れることができた。清水氏は、葬儀社の人が「今は数珠の持ち方や焼香の仕方を知らない人が多い」と言っていたことをヒントに、葬儀のマナーを解説した小冊子を作成。葬儀社の社名入りの販促品として販売したのだ。

事業の意義を捉え直し、インターネットによる発信を模索

鎌倉新書の事業ドメインの変遷  こうして、少しずつ負債を減らし、会社の経営は好転していった。社員を雇う余裕もできた。しかし、鎌倉新書の業態改革はここで終わらなかった。
 清水氏は事業を行う中で、読者が欲しているのは同社が発行する印刷物はなく、その中に書いてある情報だということに気づいた。「情報が得られるのであれば、雑誌でもセミナーでも良いのではないか」。出版社としての枠組みの中で考えていた清水氏だったが、消費者が欲しい情報を届けるという意味では、紙にこだわる必要はないと思い至った。
 自社の事業分野を「出版」から「伝えること」と再定義したのだ。そして、「情報加工会社」とした。
 1990年代後半。Windows95が発売され、検索エンジンとしてYahooが登場したころに重なる。同社が扱う情報を欲しい人にインターネットで届けよう。こうして2000年にスタートしたのが、葬儀に関する総合情報サイト「いい葬儀」だ。
 葬儀に関するよくある質問に対する答えを掲載したサイトだ。しかし、このサイトからの売上はほぼゼロ。出版事業の売上が収益源であることに変わりなく、出版事業とネット事業の間で社員同士の意見の衝突も多々あった。
 そんなとき、サイトの閲覧者から社運をかえる1本の電話がかかってきた。親を亡くしたばかりだが、どのように葬儀を手配すればいいかわからない。葬儀社を紹介してもらえないか、というものだった。当時、発行していた雑誌、月刊「仏事」の購読先の葬儀社を紹介し、対応してもらうと、ユーザーにとても喜ばれた。
 この経験が事業のヒントとなった。ユーザーと葬儀社をサイト上でマッチングするサービスをスタートした。「いい葬儀」は、情報を提供するだけでなく、サービスの提供者と消費者を結ぶポータルサイトとして生まれ変わった。

我慢の末にようやく回り始めた利益を生み出すスパイラル

 2003年には、お墓に関するポータルサイト「いいお墓」と、仏壇・仏具に関するポータルサイト「いい仏壇」でのマッチングサービスを開始した。いずれのサイトでも、一般ユーザーには葬儀やお墓、仏具の購入や業者選定に必要な情報を提供するとともに、事業者に対してはポータルサイトに掲載することでの広告効果や販売のサポート、集客などのコンサルティングを行った。
 まだシニア層がインターネットで情報を得る時代ではなかったが、40代、50代の息子、娘世代がインターネットで検索し、親世代につないでくれる。それよりも大変だったのが、葬儀店や石材店など事業者側を巻き込むことだった。
 各社ともに自社のホームページを作成していたが、ネットから問い合わせや申込みがくるという経験をしていなかったので、「そんなサイトをやっても無駄だ」という冷ややかな反応が多かった。しかし、清水氏はいずれインターネットの時代がくることを信じていた。そして、経営者の粘り強さが勝った。

 2000年代半ばにはインターネットの人口普及率が7割を超え、スマートフォンやタブレット端末も普及しはじめた。こうした波に乗り、同社のサイトでのマッチング実績も増加。毎年売上が約30%ずつ伸びていった。事業者からの登録も増加し、ビジネスの良い循環がようやくまわりはじめた。
 こうして、2015年に東証マザーズに上場、さらに2年後には東証第一部に市場変更を果たした。その後、領域をひろげ、僧侶手配のサイトのほか、終活、相続、遺言といったエンディングビジネス、さらには介護や遺品整理の優良業者を紹介するサイト、50代以上の資金計画に特化した相談サイトも運営。これまでに累計153万件以上の相談が寄せられている。
 仏教書および仏壇仏具の出版社からスタートし、ネットのマッチングサービスへと幅を広げた同社。広い視野をもつとともに、時代の潮流を読み、粘り強くサービスを続けた結果といえるだろう。

鎌倉新書の事業(関係会社含む)

お墓事業

仏壇事業

相続事業

介護事業

保険事業

不動産

出典

 鎌倉新書ホームページ「会長コラム“展望”」

 AXA 人生100年の歩き方

 ビジネスチャンス

 理念と経営

 創業手帳:鎌倉新書清水氏連載その1

 創業手帳:鎌倉新書清水氏連載その1

コラム02(2023.8.7)

異業種に学ぶ業態変革 富士フイルム

フィルム会社からヘルスケアへ 技術を活かして華麗な業態変革を遂げた富士フイルム

「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに」という富士フイルムのCMフレーズが流行語となってから40年あまり。当時、同社は写真フィルムにおいて国内市場で圧倒的なシェアを誇ったが、デジタル化の波にどのように対処したのか。現在、ヘルスケア領域でも存在感を増す同社は、どのようにして現在の地位を築いたのだろうか。

富士フイルムの業態変革
富士フイルムの業態変革
富士フイルムの化粧品アスタリフト
富士フイルムの化粧品アスタリフト(同社ホームページより)

写真フィルムの国産化から世界一を手にするまで

 昭和初期、輸入に頼っていた写真フィルムを国産化する意図で、1934 年に設立されたのが富士写真フイルム株式会社、現在の富士フイルムだ。「品質第一主義」を貫いて1970 年代には、カラーフィルムでアメリカのコダックに次いで世界2位のシェアを誇るまでに成長した。そして1976年、高感度カラーフィルムの技術面でコダックを追い抜くと、1984 年のロサンゼルスオリンピックで公式スポンサーとなり、アメリカでのシェアを大幅にアップさせることに成功した。
 富士フイルムの武器は写真フィルムだけではなかった。創業間もないころから医療用X 線写真フィルムや製版用フィルムを販売して事業領域を拡大していた。1960 年代にはイギリスのランク・ゼロックス社との合弁で富士ゼロックスを設立。1962 年に日本ではじめて普通紙による複写機の発売を果たし、オフィス機器市場にも参入を果たした。
 さらに、1988 年に世界初のフルデジタルカメラを発表、1989 年に量産化した。ちなみに、デジタルカメラの開発はコダックの方が早く、1975 年には技術者が試作していた。しかし、コダックの経営陣は商品化しようとせず、デジタル化への対応で後塵を拝することとなる。
 富士フイルムでは、コンシューマー用のデジタルカメラの他、医療や印刷事業においてもデジタル化を図っていった。

技術と市場の棚卸しで新たな成長戦略の道筋を

 カラーフィルムの世界需要は2000 年にピークを迎えた。それから2年後、デジタルカメラの市場規模が従来のフィルムによるカメラを上回り、あっという間にアナログカメラを凌駕してしまった。その結果、カラーフィルムの需要は10 年間で10 分の1に減少する。
 富士フイルムのライバル、コダックもデジタル化への対応をしなかったわけではない。しかし、デジタルカメラで撮影した写真を印刷させることにこだわりすぎたようだ。写真の撮影がデジタルカメラからスマートフォンに移ると、ネット上で写真を楽しみ、共有する時代が訪れた。Apple が初代iPhone を発表してから5年後、コダックは倒産した。
 デジタル化に驚異を感じていた富士フイルムは、2000年から新たな成長戦略の構築に向けた既存技術の棚卸しを徹底的に行った。
 技術と市場について、それぞれ既存と新規に分けた4事象のマトリックスに落とし込んだ。既存事業・既存市場は、写真フィルムやレントゲンフィルムのほか、コンパクトデジタルカメラ、コピー機・複合機、光学レンズ、デジタルX 線画像診断装置など。既存技術を使いながら新規市場を狙うのが、誘導性フィルムや遮熱フィルム、CIGS 太陽電池用基盤、液晶用フィルム、携帯電話用プラスチックレンズなどだ。
 また、既存市場・新規技術には、高画質デジタルカメラ、医療用画像情報ネットワークシステム、レーザー内視鏡、マルチコピー機があげられた。
 問題は新規技術・新規市場だ。富士フイルムが目をつけたのが化粧品・サプリメントや医薬品、再生医療用材料だった。写真フィルムの主原料でもあるコラーゲンは、肌の弾力を維持するために化粧品でも重要な原料だ。また、フィルムの劣化を防ぐ抗酸化技術は、肌のアンチエイジングに応用できる。写真の解像度や安定性を高めるために高められたナノテクノロジー技術は、化粧品の有効成分の肌への浸透力の向上を狙える。
 こうして2006 年、機能性化粧品、アスタリフトシリーズで化粧品業界へ参入を果たした。老舗ブランドや海外高級ブランドなどライバルがひしめく化粧品業界の中では、配合成分に加えて高級感ただようパッケージなど、感性価値に訴えるブランディングを行うことが多い。それに対して富士フイルムでは、機能面を徹底して訴求して成功を収めた。

デジタル化の先に見出したヘルスケア領域

 化粧品同様、2000年以降の事業再編で力を入れたヘルスケア領域では、独自の技術の応用に加えてM&Aも積極的に行った。その結果、2000年度に1兆4,403億円だったグループ全体の売上高は、2019年度には2兆3,151億円と1.6倍になり、ヘルスケアは全体の22%を占めるまでに成長した。
 富士フイルムがこうした業態変革を行えた理由は何だろうか。一つには、「品質第一主義」を掲げて、“世界の富士フイルム”を目指したことにある。絶対的な存在だったコダックの上に行くためには、自ら変化を起こす気概が必要だった。それが企業風土となり、デジタル化の波を、危機意識を持って受け止めるとともに、積極的な姿勢で取り組み、好機とすることができた。また、技術と市場とにわけて棚卸しを行い、これまで培ってきた技術や事業を活かせる分野で新規参入を果たしたことも成功のポイントとしてあげられる。
 2010年からは年率8%以上で成長しているバイオ医薬品のCDMO(開発・製造受託)市場や再生医療分野にも参入。注目の集まるヘルスケア領域でも存在感を増している。

出典

 富士フイルム

 富士フイルム

 プロシェアリングコンサルティング

 富士フイルムホールディングス 2020年3月期統合報告書

 富士フイルムホールディングス 2020年3月期統合報告書

 Kodak 倒産と富士フイルム躍進 鍵はパラダイムシフトへの対応法

 コダックはなぜ破綻したのか:4つの誤解と正しい教訓

コラム01(2023.8.7)

異業種に学ぶ業態変革 ヒロセエンジニアリング

新たに導入した加工機器を知ってもらいたい その思いからスタートした新事業

 初回は、いわゆる町工場として事業を行ってきたヒロセエンジニアリング。“ 火の車” だった会社を助けたのが、 納期短縮と内製化のために導入した高価な加工機。さらに、有効利用のために、廃材で製作をはじめたキャンプ用品。メディアにとりあげられたきっかけは何だったのか。

BBQ 鉄板HIBARON-3530
BBQ 鉄板HIBARON-3530
HIBATOUCH 触れないニャン
HIBATOUCH 触れないニャン

鉄製品加工の一元化のため、高価な加工機を導入

 兵庫県尼崎市のヒロセエンジニアリングは、1970 年に資本金200 万円ではじめた、いわゆる町の鉄工所。船舶や自動車メーカーなど一般製造業向けの鉄製品の製作と生コンクリートや砕石など建設資材製造業向けの建築設備の設計、製作、据付工事を手掛け、1996 年に資本金1,000 万円に増資した。
 現在の社長、中塩屋宜弘氏が父である創業社長の後を継いだのは増資から5年目の2004 年、26 歳のときだった。当時は売上よりも借金の方が多く、資金繰りに四苦八苦する状態。懸命に働くが、苦しい状況はなかなか解消しなかった。
 同社の特徴は、設計から据え付け、その後のメンテナンスまで一貫して行う点だ。しかし、鉄板を切断するための加工機械がなかったために、鉄材を必要な形に切断して納入してもらっていた。2,500 万円するプラズマ加工機を導入すれば、さらなる一元化が図れる。しかし、ひどいときには売上が3,000 万円ほどの年もあった。これでは銀行借入れは難しい。そこで、中小企業庁の「ものづくり補助金」の利用を思い立った。
 補助金申請を担当したのは同社で経理を担当していた中塩屋社長の妻、祥子さんだ。パソコン講師だった祥子さんは、結婚後に簿記を学び、経理を担当するようになった。
 2016 年に1度目の申請をするが却下。そこで、尼崎商工会議所のアドバイスで、採択時に加点対象となる経営革新計画を策定し、生産性向上につながることを訴えた。その結果、2017 年度に採択され、プラズマ加工機の導入を果たすことができた。これにより、それまで2〜3週間かかっていた納期を1週間にまで短縮することができるようになった。

廃材の有効利用と広報のためにB to C に進出

 せっかく高価な加工機を導入したのだから、新規受注につなげたい。そのためには加工機導入を広く知ってもらうことが必要だ。そう考えた祥子さんは、兵庫県中小企業団体中央会のプレスリリースセミナーに参加した。メディアの目にとまるプレスリリースを出せば、無料で広く伝えてもらえる。しかし、そのためには機材の拡充よりも、新製品発表などの方が記事になりやすいことを知った。
 これまで同社ではB to B で受注製品が中心。コンシューマー商品は手掛けていない。一方、プラズマ加工機の導入で大量の端材が目の前にある。そこで、端材を使った新製品の開発に本格的に取り組むことにした。ヒントにしたのがステーキ店を営む祥子さんの母の「厚い鉄板で焼いた肉はおいしい」という言葉だ。
 鉄の端材と熟練の技術者、そして祥子さんのアイデアが組み合わさってできたのが、バーベキュー用の鉄板だ。端を折り上げ、丁寧に溶接することで調理したときに出る肉汁などが漏れることもない。周囲の友人に試作品を見せたところ、キャンプ用にいいのではないか、という。そこで、他にもキャンプ用具を作ることを思いつく。
 焚き火台にもなるバーベキューコンロや五徳スタンドなどを製作し、キャンプ用品ブランド「HIBANAS(ヒバナス)」を立ち上げた。五徳スタンドはキャンパーに人気の武井バーナーに合わせたサイズに。バーベキューコンロはコンパクトに収納できるよう、あえて溶接はせず、組み立てタイプ。キャンプ好きの友人の意見を取り入れたことで、キャンパーの琴線に触れるおしゃれで実用的な商品ができあがった。
 販売は自社のECサイト。「小規模事業者持続化補助金」がサイト構築にも利用できることを知り、申請。無事に採択されて専門業者にサイト製作を依頼することができた。

プレスリリースが功を奏し、順調な売れ行き

 2018 年12月にHIBANAS のサイトを立ち上げ、商品の販売を始めると、早速、尼崎経済新聞に掲載された。さらには神戸のFM 放送や全国紙など、さまざまなメディアに取り上げられた。狙い通り、プレスリリースの宣伝効果を最大限に活かすことができた。
 その後も、人、犬、猫などをかたどったペグ(テントやタープのロープを地面に固定する杭)やロープフックなどのキャンプ用品、ネームプレートやブックエンド、オーダーメイドの看板など、鉄板を切り抜く技術を活用した商品を次々と発表。
 2020 年には新型コロナウイルスの対策商品として、直接触れずにタッチパネルの操作やドアノブの開閉ができる「ヒバタッチ」という商品を開発。ネコやサルの形をした遊び心のあるデザインが好評を博し、またたく間に約4,000 個を販売した。
 もちろん、新商品を発売するときは祥子さんのプレスリリースが大活躍。2018 年末のブランド立ち上げから2 年半で35回もメディアに取り上げられた。
 こうして、プラズマ加工機導入前と比べて売上高は約3.6 倍になり、返済も順調に進んでいる。祥子さんのアイデアと熟練の技術で作られたHIBANAS の売上は、2020 年は全体の1割を占めるまでになった。しかも、捨ててしまう端材を使っているので、かかるのは加工に要する人件費だけというのも秀逸だ。工場のキャパシティの問題から、HIBANAS の急拡大は考えていないというが、B to B からコンシューマー製品へと販路を拡大し、上手にプレスリリースを打って広く取り上げられた例からは学ぶことが多い。

ヒロセエンジニアリングのHIBANAS 事業

出典

 ヒロセエンジニアリング

 尼崎経済新聞

 朝日新聞Webメディア ツギノジダイ

 兵庫県中小企業団体中央会