エネルギー業界ニュース

本橋恵一の「これからのエネルギー事業を考えよう」

本橋 恵一:環境エネルギージャーナリスト/コンサルタント・H Energy日本担当カン トリーマネージャー
エネルギー業界誌記者、エネルギーIoT企業マーケティング責任者などを経て、電力システムや再エネ、脱炭素のビジネスモデルなどのレポート執筆、講演などで活躍。著書に『電力・ガス業界の動向とカラクリがよーくわかる本』『図解即戦力 脱炭素のビジネス戦略と技術がしっかりわかる教科書』ほか。

連載41〜連載40:市民発電所の真価連載39:岡目八目連載38:安すぎる日本のカーボンプライスと非化石証書連載37:「身を切る改革」と安売りには注意連載36:2035年60%削減のインパクト、実は66%削減なのだが連載35:10月のエネルギー値上げに備える連載34:WBCは、すごく良かったな、ということについて連載33:送配電会社の資本分離連載32:豊田通商によるSBエナジー買収の意味連載31:電子コミックと紙というデバイス連載21〜30連載11〜20連載1〜10

連載40(2023.6.21)

市民発電所の真価

 筆者がカントリーマネージャーを務める韓国企業H Energy(H Energy xyz)の日本語サイトがオープンしたので、これを契機に、日本の市民発電所について、あらためて考えてみたい。というのも、この会社が日本の市民発電所をヒントに、韓国での市民発電所を推進してきたからだ。

 日本における市民発電所の歴史は20年を超える。
 最初期の1つは、1990年代、当時の電力会社の再エネ余剰電力買取制度を利用した、江戸川区のお寺の屋根に設置したものだ。
 この頃、大手電力会社は、屋根上に太陽光発電を設置した住宅や事業所に対し、売電価格と同じ価格で余剰電力を買電するというメニューを取り入れていた。住宅用太陽光発電の普及率は低く、日中の電力ピークが問題だった時代であり、これによってピークカットができれば、電力会社としても悪い話ではなかった。実際に、東京電力と生活クラブ生協東京および神奈川による実証では、太陽光発電の設備容量に対し、2分の1から3分の1のピークカット効果があったという。

 その後、2000年には、生活クラブ生協北海道が中心となり、市民出資による風力発電所の建設も行われている。
 その後、市民発電所は拡大し、RPS制度、後にはFIT制度を利用し、市民風車から草の根的な市民太陽光まで、全国で建設されるようになった。
 また、多くの市民発電所が、出資者に対して配当できる事業となっていることも、特筆される。
 再エネ全体でいえば、市民発電所はわずかなものでしかないが、こうした市民の取り組みが、日本の再エネ開発を切り開いてきたということは間違いない。

 しかし、こうした市民発電所の運動は、再エネを増やすことにフォーカスしすぎており、再エネを使うところまでは十分にできていないということも指摘できる。
 例えば、地方で再エネ発電所をつくっても、FIT制度では実質的に電気を送配電会社に売るしかできない。仮に、地域新電力が特定卸契約をしても、経済的なメリットはない。
 再エネ開発が、結果として地方にいい影響をもたらすのは、簡単ではないし、むしろメガソーラーも大型風力も地元の反発が強くなってしまった。
 その点では、PPAという仕組みは、地域に電力と環境価値をもたらしやすいものになるはずだが、これも大手企業が契約することが多く、実際に地元の電源として活用されるケースは少ない。

 その点は韓国も同様だが、まだ再エネ普及率が低く、小売が全面自由化とはなっていないことから、かつての日本と同じように、再エネを増やすことが優先される状況だ。
 H Energyは日本の市民発電所を参考に、ファンドの募集をインターネットを使って手軽にできるようなプラットフォームを構築し、協同組合方式で発電所を建設。現時点では日本円で50億円を超える出資を集め、およそ300か所に発電所を設置している。
 プラットフォームでは、発電所がどのくらい発電し、利益を出しているのかも可視化できる。
 韓国の場合、再エネの電気は特例として韓国電力公社に販売され、環境価値(日本の非化石証書に相当)は、RE100企業の増加に伴って高値で取引されている。
 また、AIによる再エネと蓄電池の効率的な運用も、収益につながっている。

 残念だが、このしくみを日本にそのまま持ってくることは難しい。すでに太陽光発電が拡大する一方、非化石証書の価格が韓国の5分の1から10分の1しかない状況では、なかなか利益を出しにくい。また、インターネットを使ったファンドの募集には、金融商品取引法の厳しい制約がある。
 しかしその一方で、地域の再エネを地域の人々の出資で建設し、地域の人々にとって安定、かつ安価な電源として利用することはできるだろう。
 実際に、地域新電力にとって、安定した価格で調達できる非FIT・卒FITの発電所に対するニーズは高い。
 さらに、2030年のCO2排出削減目標からすれば、太陽光発電所は現状から倍増することが求められている。

 現在、筆者は日本のいろいろな事業者と対話しながら、地域で経済とエネルギーを循環させるためのプラットフォームをどのようにデザインすればいいのか、考えているところだ。
 もっとも、AIのシステムを利用して、アグリゲーターとして系統用蓄電池を運用していく方が、先になるかもしれない、とも少し思っている。

連載39(2023.6.8)

岡目八目

 よく、ラグビー理論について話す。日本はだいたい、1つの事業機会ができると、そこに人々が群がり、スクラムのような状態になる。この時点で実は、あまり大きな事業機会にはならなくなっている。それほどパイは大きくない。あるいは、大きな勘違いがある。
 スクラムからはなれてみると、ボールがどこから出てくるのかが見える。そうしたら、出てきたボールをつかみ、ゴールに向かって走っていけばいい。

 エネルギー業界はまさに、こうした状況になっている。
 最初は、FIT制度に基づいた、メガソーラー事業。これはまあ、けっこう大きな事業機会だった。よく、フリーランチはないっていうけれど、国がフリーランチの大放出(といっても、負担は需要家だけど)をしたおかげ。
 次にスクラムができたのが、小売全面自由化。700社以上が参入し、最初期こそ利益を出してきたが、一昨年あたりから経営は困難に直面している。
 現在は、PPAがスクラム状態だろうか。しかし、実際にやるとなると、思ったほど簡単ではないはずだ。
 小さいけど、VPPのスクラムができたこともある。これは利益にならなかった。
 あと、系統用蓄電池も同様だろうか。

 電力小売りが困難に直面したのは、市場の高騰だけではなく、シンプルな電気の販売しか考えなかったことだ。せいぜい、セット販売か。電気代(電気料金ではなく)を安くする提案ができなかったことが、小売り事業の進歩を遅らせた。
 PPAが簡単ではないのは、長期契約が前提になっていること。この前提を壊すか、前提にのっとって将来像を考えながら設計するか、こうしたくふうがなければ、顧客は簡単には動かない。
 VPPの場合、勘違いによって利益が遠くなった。例えば、住宅用蓄電池を多数運用し、需給調整市場で利益を出せるのか。計算すればわかるが、利益は小さい。もっとも、電力市場のボラティリティは大きくなっているので、そちらは利益を出せるだろう。VPPは確実に必要な技術なので、市場があると考えたことはまちがっていない。問題は、その市場を見誤ったことだ。
 系統用蓄電池の場合も、同じことがいえるだろう。

 岡目八目という言葉がある。これは、囲碁において、あまり強くない人であっても、第三者であれば八目先まで見通せるというもの。つまり、当事者よりも第三者の方が、状況をよく理解しているという意味だ。
 スクラムの中にいるよりも、離れて見た方が、よく見える、というのも同じことだ。
 LPガス事業も同様である。スクラムの中にいると、よく見えない。誤った方向に進んでしまうかもしれない。だとしたら、当事者であっても、ときどき離れて見る必要があるのではないか。外から見たときに、誤りがないかどうか、きちんと見極めておくことが必要だ。

 とはいえ、当事者がスクラムの外にずっといるわけにはいかないかもしれない。時々、外から見ながら、スクラムに戻っていくことになるのかもしれない。

連載38(2023.5.29)

安すぎる日本のカーボンプライスと非化石証書

 最近、カーボンクレジットビジネスに関心が集まっている。いわゆる、CO2の排出権だ。ガス業界も無縁ではなく、クレジットでCO2排出をオフセット(相殺)したCNガスが取引されている。
 それはいいのだが、基本的なことが、コンサルティング会社ですら理解されていないような気がしている。価格、しくみ、世界の情勢、こういったことが理解されていないということだ。また、そのことが、電力の非化石証書の価格にも悪影響を与えている。

 現在、日本で扱われているカーボンクレジットは、海外で認証されたボランタリークレジット(VCC)と日本で認証されたJ-クレジットだ。
 VCCについていえば、価格はピンキリだが、1トン-CO2あたり3ドル程度が平均だった。もっとも、昨年は値上がりしていて、10ドルくらいになっている。CO2削減の内容によっては1,000ドルを超えるものもあるという。
 VCCは主に、森林によるCO2吸収や再エネ事業、省エネ事業などから発行されている。きちんと第三者認証を受けているので、CO2排出削減効果がある、とされている。また、森林由来のクレジットが多い。
 市場規模は2021年には20億ドルだったが、2030年には500億ドルになる、という試算もある。

 ということなのだが、VCCは問題が多い。まず、第三者認証が適切に行われているのかどうか。また、森林の場合、クレジット発行後に森林を伐採してしまうとCO2は再び排出されることになるため、継続的なモニタリングが必要だが、行われているのか。さらに言えば、生物多様性が気候変動と同様に重視されるようになっており、植林や森林管理では生態系保全が優先されるようになってきている。VCCは企業のCO2排出削減に使うことは可能だが、必ずしも高く評価されず、国のCO2排出削減目標には計上されない。今後、パリ協定と整合性のあるクレジットが求められるようになるだろう。

 価格は10ドルくらいからと書いたが、VCC以外に、法令で規定されたカーボンクレジットもある。EU排出権取引制度のクレジットがよく知られているが、これは一昨年から価格が高騰しており、一時は100ユーロ/トン-CO2を超えていた。現在は80ユーロ/トン-CO2となっている。ほかの国でも価格は上昇しており、ニュージーランドのクレジットは昨年は85NZドル/トン-CO2を超え、現在でも50NZドル/トン-CO2程度、日本円で4,250円/トン-CO2だ。

 日本では、花王などいくつかの会社が、インターナルカーボンプライシングという制度を導入している。CO2に値段をつけることで、その価格以下であればCO2排出削減の投資をするという判断ができるしくみだ。価格は1万円/トン-CO2を超えている。
 前述のJ-クレジットも、価格が上昇しており、3,000円/トン-CO2から1万円/トン-CO2のものもある。

 今後、CO2排出削減の目標が引き上げられて行けば、省エネによるクレジットの発行のベースラインも変わってくる。再エネの普及により、電力のCO2排出原単位が下がってくれば、再エネでオフセットできるCO2排出量も少なくなる。森林のクレジット認証は厳しくなるだろう。
 パリ協定でのクレジット制度の詳細設計ができれば、VCCはその制度に近づくだろう。
 その結果、カーボンクレジットの価格は上昇することが予想される。EUの炭素国境調整が導入されれば、EUのクレジット価格に近づくことも予想される。CO2排出削減をどこで実施しても地球への影響が同等であれば、クレジット価格も収れんしていく。
 2030年にはクレジット価格は1万円/CO2-トンが平均価格になっていてもおかしくない。

 このことは、電力の非化石証書とも関係してくる。
 日本では現在、1円/kWh以下で落札されている。FIT非化石証書で0.4円/kWh、非FIT非化石証書は0.6円/kWhだ。
 これは自然エネルギー財団の調査では、米国のREC(電力の環境価値)に近い水準だという。しかし、これもまた、ボランタリーRECの水準に近いということであり、法令に基づくRECは高いときには6セント/kWhになることもある。
 実は、カーボンクレジットの価格を1万円/トン-CO2とすると、非化石証書は6円/kWhくらいになる。

 仮に、2030年にカーボンクレジットが1万円/CO2-トン、非化石証書が6円/kWhになるとすると、その時点でCNLPガスやCN都市ガス、再エネなどのビジネス環境が大きく変化することになる。どのように変化するのか、そのシナリオを考えておくことが必要だ。

連載37(2023.5.10)

「身を切る改革」と安売りには注意

 4月の重要なイベントは、統一地方選挙だった、はずだ。
 はずだ、というのは、重要さがさほど認識されておらず、投票率が低かったこと。メディアの注目度も高いとはいえなかった。
 もっとも、近年の日本では国政選挙ですらマスメディアはあまり報道しなくなっているのではないだろうか。

 こうした中にあって、関西圏を中心に、「身を切る改革」を主張する政党が議席を増やした。政治的なイデオロギーはさておいても、「身を切る改革」ということには、違和感がある。というのも、そうした改革そのものが、国民に何のメリットももたらさないばかりか、弊害が大きいということだからだ。

 「身を切る改革」の中身といえば、議員定数の削減と議員報酬の削減だ。それで、行政の支出は確かに減る。減った分が住民に還元されるのであれば、悪い話ではないように思える。
 でも、本当にそうなのだろうか。

 日本の政治家は、概して政策立案能力が低いのではないだろうか。とはいっても、これは個人の資質だけの問題ではない。というのも、現実の社会が抱える問題は複雑化しており、一人の政治家の手におえるものではない。そのため、政治家というのは、議員をフロントマンとしたチームでなければつとまらない。
 実際に米国上院議員は20名程度の政策スタッフを抱えているし、それぞれの政党ごとに政策シンクタンクも多い。
 つまり、まともな政策を立案するためには、それだけのコストがかかるということだ。

 議員定数の削減も、結果として少数意見を反映しにくい議会をつくることになる。多様性が求められている時代に逆行しているといっていいだろう。

 そうであるにもかかわらず、「身を切る改革」が受け入れられるのは、政治に対する期待が低いからだろう。
 せっかくの休日に投票所に足を運んだとしても、それだけのメリットが感じられないのであれば、誰も投票はしない。期待しないのであれば、少しでも議会に対するコストを削減して、住民へのリターンを増やしてほしいと思うのは、仕方ないのかもしれない。

 とはいえ、「身を切る改革」の実行の先には、さらに期待に応えられない政治しかない。それだけ、議員の力がなくなっているのだから。
 そうなると、さらに関心は低くなってしまう。まさに悪循環だ。
 結局のところ、政治に対する期待値の低さと関心の低さが、「身を切る改革」につながっているといっていいだろう。

 もちろん、問題はそれだけではない。名前の連呼ばかりで政策を訴える機会が少ない選挙制度というのはどうなのか。せっかくネットがあるのだから、政見放送の動画はいつでも見られるようにしてもいいのではないか。
 市長選や町村会長選、市議会選や町村議会選はとりわけ選挙活動の期間が短い。それで投票先を選べるだけの時間と情報が確保されるのか。

 ということで、最初の話に戻ると、重要なイベントなのに注目度が低かった統一地方選ということになる。
 こうした中で、「身を切る改革」というのは、政治を安売りしていることでしかない。
 安売りというのは、価格以外には何も期待されていないということだ。
 確かに、中身が同じであれば、安い方がいいにきまっている。でも、それは中身が期待されていないということでもある。
 何かしらのイノベーションがあって安くなるならともかく、安さだけにしかフォーカスされなければ、結果として中身が劣化していくだけだ。

 政治と商売は同じではないかもしれない。でも、こと、安売りに注意が必要ということは、同じ論理といえるのではないだろうか。

連載36(2023.4.27)

2035年60%削減のインパクト、実は66%削減なのだが

 G7環境省会合で焦点となったのは、石炭火力の扱いやCO2など温室効果ガスの排出削減目標など、気候変動問題だった。
 なんとなく、日本は石炭火力の存続を認めてもらって、花を持たせてもらったように見えるかもしれないが、そもそも温室効果ガスの排出削減目標がかなり厳しいものになっているので、厳しい対策が求められるようになった。
 さらに、石炭にとどまらず、化石燃料全体の段階的削減でも合意した。
 13年後の2035年は、化石燃料ビジネスはより厳しい立場に立たされることになる。

 2035年60%削減というのは、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第6次報告書に基づく数字だ。このくらい削減しないと、2050年カーボンゼロや1.5℃目標は達成できないということだ。

 これがどのくらいのものなのか。
 現在の日本のパリ協定における目標は、2030年に2013年比46%削減である。50%削減も目指すともしている。
 一方、今回出てきた2035年60%削減というのは、2019年比だ。これを2013年比にすると、66%削減となる。つまり、5年間でさらに20%削減する、ということだ。

 温室効果ガスの削減において、先行して進むのは、電力の分野だ。この時点で8割くらいが再エネと原子力になっているだろう。
 もちろん、アンモニアや水素に対する期待もある。しかし、グレー水素やグレーアンモニアを使う限りはCO2排出削減にはならないし、2035年の段階でもグリーン水素やグリーンアンモニアはかなり高価だろう。
 また、石炭火力のアンモニア混焼は、20%程度ではLNG火力よりもCO2排出が多い。アンモニアをどのくらいまで燃やせるのか、技術開発も不透明だ。
 世界的には、水素の方が有力とされているし、技術開発も進んでいる。水素を燃やすガスタービンの方が現実的だ。
 しかし、水素は輸送コストが高い。

 また、EV化がどのくらい進展するのか、させるべきなのか、ということも改めて考えることになる。再エネの増加に対し、EVが余剰をどれだけ吸収するかが、カギとなってくる。
 LPガス業界にとっても、大きなインパクトが考えられる。例えば、エコキュートが標準装備となったら、エコジョーズの存在はあやうい。せめてハイブリッド給湯器を販売していく、ということになるのだろうか。
 EV化が進展すれば、ガソリンスタンドが不要になってくる。EVであれば自宅で充電できてしまう。そのとき、どのような業態転換を考えればいいのか。

 2035年に2013年比66%と考えると、CO2排出を削減しにくい分野を残すしかない。セメントや航空機といった分野だろうか。2035年になってもハイブリッド自動車を販売しているとしたら、そのしわ寄せはどこかにいく。EV以外の販売を中止しても、走っている自動車が100%EV化するには時間がかかる。

 13年前というと、2010年、東日本大震災が起きる前の年だ。このときに、第3次エネルギー基本計画がまとまり、原発30基増設というようなことが言われていた。
 結局のところ、日本はこの13年間、再エネが増えた以外が大きな変化はなかったと思う。しかし、同じペースで考えたら、13年後には、日本は海外から大量のカーボンクレジットを買うことにもなるだろう。
 現在のEUの排出権価格がおよそ1万4,000円/CO2トンといったところなので、10%削減に相当する1.4億トンも買えばそれだけで1.4兆円ということになる。2022年の貿易赤字額の5%に相当する。

 13年後に向けて、我々はどのように進むのか、ちょっと考えておくことが必要だ。悪い話ばかりではない。CO2排出削減に向けて、新しい商品やサービスを販売できるのだから。

連載35(2023.4.6)

10月のエネルギー値上げに備える

4月に入って早々、10月の心配をしなきゃいけない。でも、2030年の心配をするよりは現実的に感じられるのではないだろうか。

 現在、政府が補助金を支給している、ガソリン、電気、都市ガスについての激変緩和措置は、はっきり言って愚策だ。橘川武郎さんに言わせると「筋が悪い」ということになるのだけど。ガソリンスタンドの経営者にとっては、ガソリン需要を維持してくれるので、その点ではよかったと思われるかもしれないのだが。

 激変緩和措置は、予定では今年の9月まで続くことになっている。電力でいえば、8月までは7円/kWhの補助が出て、9月も半額の3.5円/kWhとなる。10月以降は未定ということだが、仮に10月から補助金がなくなると、どうなるのか。

 そのころまでにエネルギー価格が下落していればいいのだが、少なくとも大幅な下落は期待できないだろう。確かに、現状を見れば、一時期ほどの高騰とはなっていない。
 日本の電気料金の高騰の最大の要因は石炭価格の上昇だが、これは昨年のピーク時とくらべて4月上旬には半分以下にまで下がっている。値上がりし始めた2021年秋のレベルにある。

 天然ガスは昨年夏こそヨーロッパで大幅に値上がりし、極端な高騰となったものの、暖冬の影響で冬期はさほど値上がりせず、春は非需要期なことから、比較的安くなっている。また、米国産シェールガスがかなり安いということも影響している。
 夏は再び電力需要が伸びる。気候変動の影響で猛暑となる可能性は高いため、再び石炭や天然ガス価格が上昇する可能性も高い。
 秋となって再び非需要期となれば、エネルギー価格は落ち着くのではないだろうか。しかし問題は、その次の冬だ。

 欧州は一般的に冬が天然ガスの需要期だ。仮にロシアによるウクライナ侵攻が解決したとしても、ロシアから欧州への天然ガス供給が拡大する見込みはほとんどない。暖冬にでもならなければ、天然ガスの価格が急騰する可能性は高い。
 日本の場合、長期契約によるLNGが圧倒的に多いため、欧州ほど高騰することはないだろうが、やはり高値となるだろう。とはいえ、今年の冬同様に在庫を積み増すことになるので、価格変動は少なく、ただし平均的に高値、ということになるのではないか。
 一方、石炭は新興国の需要増の影響で、再び価格が上昇する可能性がある。

 何が言いたいかといえば、激変緩和措置が終了するとすぐに冬の需要期を迎えることになり、需要家は急激な価格上昇にさらされるということだ。

 そもそも、なぜ激変緩和措置の補助が愚策なのか。それは、せっかくの補助が将来の構造変化への対応の妨げになっているからだ。
 ガソリンの価格高騰の抑制のために補助金を出すよりも、EVや充電設備への補助金の方が、結果として後に残る。電気料金よりも断熱改修などの補助をすれば、CO2排出量が減少する。けれども、こうした対応を取らなかったことによって、EV化やCO2排出削減に対し、日本社会が遅れてしまうことになる。

 確かに、ガソリン代や電気代、ガス代の値上げが抑制されれば、消費者にとってはありがたい。でも、それは一時的なものだ。
 長期的にエネルギー安全保障を考えながら、安定した供給が可能な体制、それに資する設備の更新、気候変動対策、こうしたことに対応することが優先なのではないか。
 民間においても、これは同様で、こうした視点を持って事業に関わっていくことが必要なのではないか。補助金を受け取ったとしても、長期的な事業戦略は今の政府に付き合う必要はないのではないか。そうしなければ、事業そのものが時代に取り残されかねない。

 今から今年10月のことを考えておくのは、2030年に、さらに2050年につながっていくことだ。

連載34(2023.3.24)

WBCは、すごく良かったな、ということについて

 今回の第5回WBC(World Baseball Classic)は、結果としては日本チームの優勝で、けっこう日本国内は盛り上がったと思うけれど、それにもまして、いい大会というか、いいゲームだったな、と思った。たぶん、第1回から第4回までと比較しても、ちがったのではないか、というふうに思っている。

 筆者がテレビで観戦したのは、準決勝のメキシコ戦と決勝のアメリカ戦のみだが、どちらも、どっちが勝ってもおかしくないいいゲームだった。野球のおもしろさを100%伝えてくれるゲームだったと思う。では、なぜそんなゲームができたのだろうか。いくつもの要因がある。

 今回のWBCのMVPは大谷翔平だった。大谷のテンションの高さは半端なかった。栗山監督が言っていたけれど、大谷が所属するエンゼルスは優勝から遠く離れたところにいて、緊張するゲームがなかなかできなかった、そのフラストレーションがあったのだと思う。野球は個人競技ではないので、大谷が何勝したか、ホームランを何本打ったかもだいじだけれど、チームとして優勝を目指すことはもっと重要だ。
 チームがあって大谷があるし、大谷があってチームがある、そういう姿が、見ている側にも伝わったと思う。

 今回の日本チームに米国籍の大リーガーが一人参加していた。ヌートバーである。あっというまに、ペッパーミルが流行ったけど、ある意味では異文化を受け入れることに成功したとも思う。言葉の通じない中でも活躍したし、日本のファンにも強い印象を残した。

 そして、ヌートバーの参加に象徴されることだけれど、今回のチームには、日本を背負うという悲壮感はなかった。むしろ、各国のスーパースターが集まったドリームゲームをするという、その楽しさがあったと思う。国別の対抗ということではなく、国別で分けたドリームチームであり、最後の場面は、エンゼルスのスタープレーヤーどうしの戦いとなったことも印象的だ。
 そうした中で、みんながよく知っている選手のいるチームを応援してきた、ということが、良かったのではないだろうか。

 WBCにはわりと若い選手が選出されている。ベテランに、シーズン前にベストコンディションで試合をしてもらうのは簡単ではないし、そうだとしたら、むしろ若い選手にチャンスを与えたほうがいい、というのはあると思う。それでも、第1回大会から比べると、現役大リーガーの参加は増えたとも思うけど。
 それはそれとして、特に決勝戦では、日本の2年目・3年目の若いピッチャーが大リーグの強力打線を抑えたのは、なかなか痛快だったと思う。薄氷を踏むような展開ではあったけど。その痛快さもあるけれど、彼ら何年か後には大リーグで活躍していてもおかしくない。そうしたチャンスをつくる機会を、栗山監督はつくってきたのではないか、とも思う。

 こうしたチームをつくってきたことには、栗山監督のマネジメントというのが評価されるべきだと思う。一流選手の集まりなので、あえて言わないけれど、察してくれるし、その上でやるべきことをやってくれる。また、それを納得させるだけの信頼もある。
 ホットな大谷に対し、クールなダルビッシュをメンターとして配置したり、ヌートバーを招集して刺激を与えたりはしたけれど、それ以上細かい指示はしていないし、ゲーム中も選手起用以外は作戦らしい作戦はなかったと思う。
 こうしたマネジメントのスタイルが、選手の力を最大限に引き出したのではないかと思う。

 そして最後に、それぞれの選手は、優勝の二日後にはチームに戻り、シーズンの開始に備える。日本でもアメリカでも、長いシーズンが始まる。ドリームチームのことは忘れて、頭を切り替えなきゃいけない。
 でも、終わったら次へ行く。こうしたことが、人を進ませるのだと思う。それがわかっているから、この一瞬が感動的だったのではないか、とも思う。

 この大会で、選手たちは、見てくれた子供たちが野球をめざしてくれたらいいと話していた。確かに野球人口は減っているし、9人集まらない野球部もめずらしくない。
 その理由は、子供が減っているというだけではなく、とくに少年野球や高校野球がつまらないものになっているということがあるのだと思う。アマチュアスポーツ全般に言われているのは、勝利至上主義が行き過ぎていないかどうかだ。野球に限っても、こどもがのびのびとプレーできているのかどうか。どの選手もフィールドに立つことができているのかどうか。
 WBCは野球の面白さを伝えてくれたけれど、そこには、投げて、打って、走って、捕るという基本的な面白さがあった。アマチュアスポーツが、そういったことを本当に楽しめるものとなっているのか。
 バント禁止の少年野球大会、監督やコーチの叱責を禁じたバレーボール大会などが登場し、高校野球でも地域のリーグ戦ができたりしている。

 私たちは私たちなりのWBCをやっていく、そう思わせてくれた試合だったからこそ、多くの人が感動したのではないか、とも思う。

連載33(2023.3.7)

送配電会社の資本分離

 関西電力をはじめとする、旧一般電気事業者が、送配電部門の顧客データを閲覧し、会社によっては取り戻し営業をしていたことが明らかとなった。
 送配電事業は、2020年に旧一電から分社化されたが、それ以前から、中立を保つために、情報遮断を行ってきたはずだった。つまり、同じ会社であっても、送配電部門のデータについては、他の部門はアクセスできないし、人事異動も制限されているはずだった。しかし、電力会社内で同じシステムを使っていれば、情報が見えてしまう、という言い訳だったが。

 この問題にたいし、政府の有識者会議は、資本分離すべきだという提言をまとめたという。
 ヨーロッパでは、電力の自由化にあわせて、送配電部門は資本というか所有が分離されていった。代表的な会社が英国のナショナルグリッドだ。
 一方、米国の場合、自由化されている州でも送配電部門は資本分離はされていない。そのかわり、機能分離といって、運用部門が独立している。
 旧一電の資産として、もっとも大きいのは、実は送配電網だ。発電所の方が価値がありそうだが、実はそうではない。さらに、発電部門は自由化されている上、脱炭素化にともなって火力発電の価値が下がりつつある。
 その上、送配電部門は規制部門であり、料金も総括原価方式が適用される。正確には、レベニューキャップという制度によって、無制限の送配電部門の投資によって価格を引き上げることには歯止めがかかるようになっている。これは、かつての旧一電が投資するほど料金を引き上げられるようになっていたことに対する反省だ。

 送配電部門が資本分離されれば、旧一電は資産のもっとも大きな部分を手放すことになる。まあでも、それはたぶん、悪いことではなく、売却益は原子力発電の廃炉費用にあてればいいのではないか、とも思うわけだが。
 そうはいっても、前述のように火力発電は先細りであり、小売り部門は顧客エンゲージメントが低いとなると、本当に10年後は、旧一電そのものが存在しないかもしれない。

 大企業であっても、不正に対する処罰は厳しいものとなることがある。こうしたことは肝に銘じておきたい。法的な処罰のみならず、金融市場における処罰もある。いわばESGのGの部分である。

 一方、今回の問題に関連して、旧一電は電気料金のうち規制料金の値上げを申請しているが、これについて政府は慎重に査定するとしている。しかし、これは問題が違うのではないか、という気がしている。

 そもそも、規制料金を残すかどうか、かつてその議論がなされ、結局残ったわけだが、電気料金の価格が高騰するという状況は、当時とは異なっている。というのも、規制料金が割高だったことから、新電力に競争力が生じた。しかし現状は、電気料金が高騰しており、規制料金は逆に安い価格で残っているということになる。そのための値上げ申請である。新電力にとって、旧一電が赤字のまま規制料金で電気を供給し続けることは、双方にとってメリットがない。

 また、そもそも規制料金を残すべきかどうか、前述のように環境が変わっているのだから、その点から議論すべきではないか、とも考えられる。
 そこで気になるのが、三段階料金の最初の部分だ。この制度では、実質的に旧一電と新電力がいずれも赤字で供給していることになるだろう。
 では、これをなくすべきなのかといえば、そうではない。そもそも、離島や過疎地域でも、電気料金が高いということはない。電力会社は赤字で供給している。離島の場合、発電原価が高いため、新電力は参入できず、旧一電の赤字での供給となる。
 この赤字は、電力会社全体で負担すればいいのではないだろうか。実際に、中国電力では離島に供給するための費用を、電気料金のコスト構造の中に織り込んでいる。こうした料金については、いずれユニバーサル料金として徴収してもいい。前例がないわけではなく、NTTでも離島などの通信コストを補填するため、ユニバーサル料金を顧客から広く徴収していた。

 三段階料金そのものが、元々石油ショックを契機に、省エネ促進という意味も含めて導入されている。そうであれば、このしくみを維持することに、公費を使ってもいいかもしれない。
 現在、一般家庭の電気料金に対し、政府から7円/kWhの補助が出ている。しかし、これは光熱費を下げる一方で、個人の省エネのモチベーション(断熱改修や家電の買い替え、太陽光発電の設置など)をうばってしまい、国の脱炭素化を止めてしまう。同じことは、ガソリンの補助金についてもEV化の阻害として同じことが指摘できる。
 だとしたら、一段目の安価な料金への補助に絞ってもよかったのではないか、と思うのだが、いかがだろうか。

連載32(2023.2.20)

豊田通商によるSBエナジー買収の意味

 豊田通商が、ソフトバンクグループのSBエナジーの株式の85%を取得というニュースがあった。SBエナジーは豊田通商の子会社となる。結果的には、双方にとって悪くない取引だ。SBエナジーの社員にとっては、ショックだっただろうけど。

 この取引、ソフトバンク側から見ると、1つは赤字の穴埋めのようなところがある。だが、それだけではない。ソフトバンクは電気事業に関わる子会社として、SBエナジーとSBパワーの2つがあった。先に設立されたSBエナジーは、メガソーラーなどの開発を手掛けてきた会社だ。とはいえ、日本でのFIT価格の引き下げから、日本国内での新たな開発を行わず、サウジアラビアへの進出を行った。とはいえこれは成功せず、現在はVPP事業などで次の展開をうかがってきた。
 一方、SBパワーは小売り電気事業を行っている。通信会社としてのソフトバンクにとっては、電気の小売りもてがけることで、顧客接点をふやすことができる。そして、SBパワーでもVPP事業を行っている。
 このように見ていくと、SBエナジーはソフトバンクグループにとって相対的に重要ではなくなってくる。

 一方、豊田通商は最近ではユーラスホールディングスを完全子会社化した。
 元々、ユーラスは後に豊田通商に吸収されるトーメンがかつての東京電力とともに設立した会社で、風力発電事業を中心にてがけてきた。東京電力ホールディングスが赤字となる中で、ユーラスの株式を売却せざるを得なかったとはいえるだろう。また、風力発電の開発そのものは、子会社である東京電力リニューアブルパワーや中部電力との合弁会社であるJERAでも取り組んでおり、その意味でもユーラスは不要となっていた。
 ユーラスは実質的には、トーメンの風力発電事業のチームだったので、豊田通商に戻るということになる。豊田通商自身も風力発電事業などの再エネを手掛けてきた経緯もある。
 これにSBエナジーを加えることで、豊田通商は再エネ開発事業者として日本有数の企業となる。
 さらに、豊田通商は自社に手薄だったSBエナジーのVPP事業も組み入れることができる。トヨタグループとして、EVを活用したエネルギーシステムの構築が期待される。

 さて、筆者が気になるのは、両者の10年後の姿だ。
 およそ10年前、ソフトバンクはSBエナジーを設立した。孫正義は再エネの開発を通じて日本の電気事業の独占に風穴を空けたかった。同時に、FITというビジネスチャンスをものにしたかった。その後、SBエナジーの子会社としてSBパワーを設立したわけだ。しかし、今では孫はエネルギー事業、というよりも日本での事業そのものに関心を失っているように思える。こうした中で、ソフトバンクグループは日本で何を生み出せるのだろうか。
 10年後には、何が残っているのだろうか。

 では、豊田通商はどうなのだろうか。再エネの主戦場は、これから洋上風力と系統運用技術にうつっていく。これらはまだ豊田通商として十分にできているものではない。では、今までのようなシンプルな再エネ開発事業はどこまでできるのか。まさかトヨタ自動車向けのPPAで終わるとも思えない。
 10年後に向けて、現在の経営資源をどのように使っていくのか、気になるところだ。

 本当に今回の取引は悪くないと思う。けれども、ではそれで何をするのか。そのことをもっと伝えていくべきではないだろうか。

連載31(2023.2.6)

電子コミックと紙というデバイス

 前回はガソリン自動車から電気自動車に変わっていく中で、事業の定義が変わっていくことを書いた。今回は、別のケースを紹介したい。

 マンガの市場は現在、6,000億円を超えている。「鬼滅の刃」のようなヒット作がなかった2022年こそ前年比でマイナスになっているものの、それまでは上昇傾向にあった。
 とはいえ、出版不況というのが通常の状態にあるし、かつては発行部数が600万部に達していた「週刊少年ジャンプ」は、現在128万部とのこと。「週刊少年マガジン」や「週刊少年サンデー」は100万部に達していない。

 多分、気づいていると思うが、マンガ市場の拡大をけん引しているのは、電子コミックだ。これが登場するまでの2000年代は市場が縮小傾向にあった。
 とはいえ、紙のコミックの市場の方がまだ大きい。電子コミックが紙を維持している、という側面もありそうだ。

 これを、出版業が紙から電子書籍に変わっていくというふうに考えると、本質を見誤る。それでも紙が残る、といえばそうなのだが、そこには理由があるということが、わからなくなってしまう。
 どういうことかといえば、出版物をひとくくりにして見てしまうということが問題だ。

 書店に行くと、たくさんの本が並べられている。では、消費者にとって、本はすべて同じ役割を持っているものなのだろうか。そうではないだろう。形態が同じであっても、使われ方は異なっている。
 マンガや文芸書は楽しませてくれる時間を与えてくれる。けれども地図や料理書は実用的な目的があるし、絵本は幼児にとってはおもちゃでもある。
 つまり、形は同じであっても、用途が異なる商品ということだ。
 何が言いたいのかというと、本というものは、ROM(Read Only Memory)のデバイスであるということだ。そのように見ていくと、出版がどうなっていくのか、違った見方ができる。

 書店というのは、本を売っているのではなく、ROMにいろいろなコンテンツを載せて売っていると考えてみたらどうだろうか。そうすると、紙に適したコンテンツと電子化が適したコンテンツがあることがわかる。すでに百科事典は印刷されることがほとんどなくなってきた。実用的なコンテンツは、紙よりもスマホやタブレットの方が適しているのだろう。
 その一方で、マンガでは紙がある程度残っているのは、紙というデバイスがおちついて読むことに適しているからだろう。電子コミックでたいていの作品を読んだとしても、じっくり読みたい作品はコミックスを買う、という消費者の行動が、コミック市場を支えているのだと思う。

 そうは言っても、紙というデバイスでしかコンテンツを提供できない書店の経営は苦しくなる一方だし、生き残るためには紙でしか提供できないコンテンツの専門店化か大規模化するしかない。それができない街中の書店は消えるか、あるいはコンビニエンス化するしかないだろう。
 一方、書籍の印刷は市場がさらに縮小していく。印刷業から、版下作成の業務が縮小し、さらに印刷そのものが減少していっては、経営は成り立たない。凸版印刷も大日本印刷も、すでに印刷会社というものからいかに脱出しようとしているのか、その苦労の連続のようだ。

 にもかかわらず、マンガ市場は好調だ。何が言いたいのかといえば、人はあいかわらずコンテンツを求めている。ただし、デバイスが変化しているだけだ。そして、新しいデバイスに対応できない事業は、サプライチェーンから外されていく。書店や印刷会社は不要になっていく。
 自動車業界で起きていることは、特殊なことではなく、かつて出版業界で起こってきたことなのだ。