経済学の研究者から企業経営へ
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――まずは会社の成り立ちと社長の入社経緯から教えてくだ さい。
田島 当社は私の父が創業しました。父の家、田島家は埼玉県入間地域では古くからの家です。遡れば鎌倉時代ぐらいから、家の歴史がわかっているようです。近代になって燃料業も始めますが、それが現在の田島燃料(株)(狭山市)です。父の代での長男、私の伯父がそこを継ぎ、父は1955年に「これからは石油の時代だ」と考え、石油を主に取り扱う事業者として独立しました。ちなみに父の弟、私の叔父は立川で東京ガスのサービスショップとLPガス販売を行う会社をつくりました。それが現在の(株)田島(立川市)です。3社はトータル田島グループで連携を取りながら、ビジネスを行っています。
そういう家で育ちましたが、私自身は家業を継ぐなどということはまったく考えていませんでした。どちらかというと、商売には向いていないと自分で思っていましたから。大学に入り経済学を専攻したのですが、研究者への道を考えていました。大学院に進み、アメリカのイリノイ大学の大学院に留学し、財務理論を学んでいました。
ところが父が急に病気で倒れました。かなり大変な状態でしたので、まず会社に来て決裁印を押す係が必要でした。それで私が急きょ呼び戻されたわけです。世はバブル時代でしたが、アメリカではすでにブラックマンデーが起きていましたから、早晩、日本の好景気も終わると私は考えていました。けれども、日本のバブルはまだ続いており、釈然としない気持ちで株価の高騰や世相を眺めていました。しかしその後バブルは崩壊し、タイムラグはありましたが、経済は正直だと実感しました。そのような時期に社長の仕事を引き継ぎました。
時代変化に対応し「過去」を断ち切る
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――研究者から経営者になるという大きな変化に、戸惑いはありましたか。
田島 もちろんありました。大変でした。当時の当社はガソリン販売が主体で、サービスステーション(SS)が販売店さんも含めて現在の数倍程度運営していました。暮れの多忙な時、SSで洗車を手伝っていると黒塗りのハイヤーが入ってきて、見ると後ろの席に長信銀に行った大学の同級生が乗っています。当時は興銀や長信銀あたりだと、入行3年もすればハイヤーで客先まわりする行員もいました。「おい田島、お前何やってんだ」と言われ、これで自分はどうなるかと思ったりもしました。けれども、人生というのはわかりません。興銀も長信銀も今はありませんから、彼らもその後は苦労したようです。
やがてバブルがはじけ、特石法が廃止されSSの自由化が始まると、当社のメインビジネスであったSSの収益が急激に悪化しました。それまではガソリンを中心に燃料油を販売さえすれば、利益を上げることが可能でした。それ以降は油外商品の販売や洗車サービス、カーケアなど、周辺ビジネスへと舵を切りました。しかしながら、当時の社員にそれがなかなか伝わらない。彼らからすれば「いままで20年まじめにガソリンを売ってきた。食える食えないは経営者の問題で、自分たちが何か違うことをやらされるのはおかしいじゃないか」という考えを持つ人も少なくなかったです。「やれ」と言ってもやらない人には、給料などでやる人と差をつけるしかありません。それが不満で辞める人も出る。50~60人のSSの従業員が、2~3人を残して総入れ替えになりました。でも、それはやむを得ないんだと思っていました。体質の「質」を変えるのはとても難しい、結果的に「体」そのものを変えることになりました。長寿企業の法則は、環境が変化する中でトランスフォーメーションが行えるか否かと言われています。当時は大変でしたが、それを実践できた良い経験だと思っています。
――人の入れ替えは外部からの中途採用ですか
田島 中途も新卒も。人の採用は今でも一生懸命工夫してやっています。採って教育して、の繰り返し。やはり合わない人、教育しても難しい人もいますから、そういう人が去っていくのは残念ながら仕方ないと思わざるを得ないのかもしれません。最終的には感性というか、経営者の思い、あるいはお客様の気持ちとかを感じ取ってくれる人と仕事をするしかないと思っています。これだけは理屈ではなかなか乗り越えられないようです。
いまは随分と落ち着きましたが、かつては社員の教育は毎日が戦いのようでした。大学の同期に、星野リゾートの星野佳路さんがいます。卒業後も何度か会う機会がありましたが、彼が講演で、自身が家業の旅館を継いだ頃、板前や仲居といった従業員への対応で苦労したとの話をしていました。「昔のままやっていればいい」では商売は続かないということが理解してもらえない。ちょっと注意するとプイと辞めてしまうとか、明日営業ができるだろうかと思ったことすら何度かあった、と話していました。彼はそれを辛抱強く変革し、さまざまなアイデアで事業を大きく素晴らしいものにしました。彼を例にするのはおこがましいですが、当社のSSをはじめとした会社の状態もそのようなものでした。銀行や取引先の大手の管理職をスカウトもしてみました。大企業から来た人は私の話は理解してくれますが、それを他のスタッフに伝え、実行し、結果を出すまで取り組んでくれる人には出会えませんでした。中小企業は経営者が第一線に立つのが早道だと考えています。
燃料事業の周辺を徹底して開拓する
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――SSが難しくなり、LPガス事業に舵を切ったわけですか。
田島 私が入社した時、既にLPガス事業はやっていました。というより、創業当初からの扱い商品で、卸と小売りを行っています。私が子供の頃から勤めていて、定年を延長して働いてもらっている配送スタッフもいます。タスクフォース21に参加させていただいたのは10年ぐらい前になりますが、その頃もやはり石油の比重は大きかったですね。
SS経営が難しくなる中で次に何をしていこうかといろいろ考え、調べました。私は、石油もガスも含めた燃料業というのは、基本は「受注産業」だと考えています。自分から伸びていくというより、伸びている産業や企業との取引を広げることで伸ばすことができる。だからまずは自社の周辺で、どんなものが伸びているのかを調べ、そこにアプローチしようと思いました。これは今も続けている当社の戦略立案の基本の一つです。
そう考えて調べていくと、当社のある狭山市は工業生産額が全国でも1、2位の自治体だということがわかりました。どんな業種や企業があるのかを調べ、当社の石油製品、A重油、潤滑油など産業用のユーザーを探してアプローチしました。ホンダやその関連だけでも相当数の工場があり、そこへの納入に活路を見出しました。
ここで一息ついたのですが、今度は円高で取引先企業がどんどん海外に移転してしまいました。産業用の今後の伸長は難しいと考え、次に着眼したのは民生用。その中でも大きな伸びが始まっていたのが賃貸住宅。このあたりは東京通勤圏で賃貸住宅の需要があり、投資や相続対策で建てる側のニーズもありました。建築業者や不動産業者を追いかけて、アパートへのガス供給で顧客数を伸ばすことができました。けれども現在、アパートは供給過剰になりつつあります。賃貸住宅バブルはもう終わったとも言えるかもしれません。このように、伸びる業種や企業を追いかけても、それが永久に伸び続けるわけではありませんから、常に情報を収集することが大切です。
いま、業種全体で儲かっているといえるビジネスはあまり多くないように思われます。その中で伸びている企業というのは、従来の考え方とはまったく違う着眼点を持っていたり、ニッチなところにノウハウを持った企業です。当社でいま伸びている分野 も、そういう企業との取引です。
世の中は常に変化していますから、企業は常に変化に対応し、新しいことに取り組んでいかなければなりません。ただし、まったく違う場所に飛び込んでいくということは、私はあまり考えません。石油、ガスという燃料の販売のルートやノウハウを活かし、それを軸として周辺事業や商品・サービスを考えるという形でいきたいと考えています。